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盛岡の先人たち

第50回:松田(まつだ)  覚太(かくた)(1888〜1975) / 養蚕(ようさん(・農業の発展につくした人

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松田覚田の写真 松田覚太(旧名:角太郎)は1888(明治21)年10月27日、兵庫県養父(やぶ(八鹿(ようか(村(現:養父(やぶ(八鹿(ようか(町)にて松田源一、やのの4男として生まれた。1906(明治39)年3月、兵庫県立養蚕(ようさん(学校(現:兵庫県立八鹿(ようか(高等学校)を卒業した覚太は、養蚕(ようさん(が盛んな同県の豊受社蚕業講習所の主任講師となり後進の指導に務めた。
 1918(大正7)年、岩手県では国分謙吉を社長とした岩手蚕種株式会社(のちの岩手農蚕株式会社)を立ち上げ、当時の花形産業とも言うべき養蚕(ようさん(業の振興を図った。しかし見通しの甘さから累積赤字7万円(現在の7億円相当)を抱え込み、その建て直しのため覚太を同社事務支配人として招聘した。覚太は蚕種の入替や生産から販売の一貫化を図り、昭和のはじめには経営を立て直し、戦前の岩手県養蚕(ようさん(業の発展に大いに寄与した。
 戦後、覚太はナイロンの普及による養蚕(ようさん(業の縮小を予測し、農機具や農薬販売へと事業を切り替えその普及に努めた。また1958(昭和33)年11月の国分謙吉の死去を受けて同社取締役に就任、88歳で亡くなるまでバランス感覚に優れた経営を行った。
 覚太は日本人の血の中に流れている“勤勉努力(きんべんどりょく(”の気風を誇っていたが、戦後のそろばん勘定を重視した農林業軽視の風潮に対し、“一億総ばちあたり時代”として嘆いていた。


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