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盛岡の先人たち

第84回:常磐津(ときわづ)  林中(りんちゅう)(1842〜1906) / 常磐津の名人・家元

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常磐津林中(ときわづりんちゅう)の写真 常磐津林中(本名:山蔭(やまかげ(忠助)は1842(天保13)年12月28日、江戸芝桜田久保町(現:東京都港区西新橋)にて盛岡藩士石川清蔵の子として生まれた。生後間もなく、同じ町内に住む山蔭(やまかげ(定五郎に引き取られ育てられる。
 林中は豊後系江戸浄瑠璃(じょうるり(の一派の常磐津において名人と言われる。
 幼いころに常磐津を習い、1850(文久2)年からは常磐津小和登太夫と名乗り、近世の名人と言われた豊後大掾(ぶんごのだいじょう(のもとで修行した。豊後大掾(ぶんごのだいじょう(の死後は、家元門下の初代松尾太夫のもとで学び、師匠の後を受け2代目松尾太夫の名を継ぐ。このころから芸の腕を見込まれ、1879(明治12)年7月、家元の養子となり7代目常磐津小文字太夫の名を襲名した。林中は家元として、安政年間より続く常磐津派と岸澤派の和解に努めたが、養家と折り合いが悪くなり、1886(明治19)年に家元を退き林中と名乗る。のちには宮古路国太夫半中と名乗って地方への興行を行い、実父の故郷盛岡へ移り住んだ。盛岡では幡街の芸者を中心に常磐津を教えながら芸を磨く。1890(明治30)年、東京へ戻った林中は9代目市川團十郎らと「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきと(」を上演する。この時團十郎は林中の出来栄えに感じ入り、“この人が語らなければ躍らぬ”と発言したと伝えられている。
 明治維新の元勲であった後藤象二郎もまた林中の常磐津を聞き、“今日の語物は詞が沢山あっても、実に面白く聴かれた。語者によって斯うも違うものであるか”と言い残している。


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