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那珂梧楼(本名:通高)は1827(文政10)年11月24日、出羽国大館(現:秋田県大館市)にて医師江帾道俊の次男として生まれた。父道俊はのち盛岡藩に奥医師として仕える。梧楼も当初は江帾姓であり、明治以降に那珂姓を名乗った。 18歳の時、藩主利済の近習に挙げられるが、翌年には“声名を以て海内を驚かさざれば一生入らず鬼柳関”の詩を残して脱藩する。そして江戸、京都、安芸などを遊学、その学才と直情的な性格は学友の畏敬を集め、多くの士と交友を結んだ。その中には清川八郎、吉田松陰、桂小五郎らがいた。1849(嘉永2)年、梧楼の兄春庵が利済の側近田鎖左膳に捉えられ入獄、その後獄死する。これを聞いた梧楼は仇討を画策、吉田松陰、宮部鼎蔵とともに奥州に下る。白川で松陰らと別れた梧楼は潜伏して機会をうかがったが、先に利済派が失脚、ついに本懐を遂げることができなかった。 1859(安政6)年、江戸で隠士の如く暮らしていた梧楼を、盛岡藩が藩校明義堂教授として迎えた。1865(慶応元)年には藩校の名称を作人館と改めるとともに、梧楼の唱える「和漢一致」が学風として取られ、名実ともに盛岡藩校の中心となった。しかし1868(明治元)年、秋田戦争における盛岡藩の指導者として楢山佐渡、佐々木直作とともに捕らえられ、江戸へ護送される。その後は大蔵省、文部省に務めるも、1879(明治12)年5月1日、友人との酒の席で亡くなった。
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