第39回:村井茂兵衛(むらいもへえ)
村井茂兵衛(1821年~1873年)
非運の豪商
村井茂兵衛(本名:京助)は1821年(文政4年)5月11日,盛岡紺屋町で呉服商「鍵屋」を営む2代目村井茂兵衛(本名:快助),トクの長男として生まれた。新渡戸仙岳は“京助人となり剛毅にして胆力あり,識見超邁(しきけんちょうまい),交わる所当代の名士なりき”と評した。
城下でも有数の豪商だった村井家は名字帯刀を許されており,京助も御勘定吟味役,厨川通代官を歴任した。また尊王の志が篤く,江幡春庵,目時隆之進,吉田松陰らと交友している。しかし1854年(安政元年)12月,逼塞(ひっそく)を申し渡されたため,1858年(安政5年)の父の死後も村井茂兵衛の名を継ぐことを許されず,京助の長男東一郎が3代目茂兵衛を襲名した。京助が4代目村井茂兵衛の名を継ぐのは,1867年(慶応3年)10月,東一郎の死後であった。
1868年(明治元年),賊軍の汚名を被(こうむ)った盛岡藩は薩長から軍資金7万両を要求された。藩は鍵屋に7万両を納めさせ,代わりに尾去沢(おさりざわ)銅山の経営権を移譲したが,後に藩の債務として政府に没収される(尾去沢(おさりざわ)銅山事件)。このため鍵屋の身代は傾き,政府と裁判で争うも,銅山が茂兵衛の元に戻ることはなかった。
1873年(明治6年)5月,失意の中で茂兵衛は茶会を催し,知友へ永別の辞を述べている。そして死の床で次の歌を遺した。
夢とのみ 聞きし浮世も 今更に 死ぬるばかりは まことなりけり
掲載日:平成18年5月10日
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