第128回:太田孝太郎(おおたこうたろう)
太田孝太郎(1881年~1967年)
金石文・郷土史家
太田孝太郎は1881年(明治14年)7月15日,旧盛岡藩士太田小二郎の長男として生まれた。1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済学科を卒業,その後横浜正金銀行に入行し,本店勤務をへて中国の天津支店に勤務した。この間に中国古印を研究する。収集した印は1000点を超え,現在では3点しかないという隋代の印や珍しい玉印も含まれており,世界でも有数のコレクションと言われている。
1784年(天明4年)に筑前国那珂郡志賀村(現:福岡市東区志賀島)から出土した「漢倭奴国王印」は,1931年(昭和6年)12月14日に国宝に指定された。しかし形式や発見の経緯に不自然な点があることから,近世に偽造された贋作であるとの説が幾度も唱えられた。これに対して太田は,「「漢委奴國王」印文考」と題する論文を1952年(昭和27年)に発表しており,現在の通説と同じく真物であると主張している。
横浜正金銀行退職後,太田は1920年(大正9年)に父小二郎の後を継いで盛岡銀行支配人に就任,同行常務取締役,頭取を歴任した。また,盛岡倉庫株式会社取締役社長や岩手日報社取締役を務めるなど,実業家としても活躍した。
一方,盛岡を代表する郷土史家としても知られ,太田が編纂した『南部叢書』,『盛岡市史』は盛岡の郷土史研究に欠かせない史料となっている。
祖父孝は書家として知られたが,太田孝太郎も夢庵と号し,篆書(てんしょ)や隷書(れいしょ)のほかに殷墟文字(いんきょもじ)など学問的知識を駆使した書を多く残した。“書家に参じ模倣を嫌い,その範疇以外に逸出せんとするも,篆隷以外,年を重ぬるも未だ未成の中にある”。『盛岡市史』に記された太田の書についての評である。
掲載日:平成22年1月25日
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