盛岡の歴史と遺跡4(弥生・古墳時代)

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広報ID1009459  更新日 平成28年8月21日 印刷 

遺跡の発掘調査からわかる盛岡の歴史を紹介(弥生・古墳時代編)

弥生・古墳時代(約2300年~1400年前)

マスコットキャラクター「みっけ」のイラスト

弥生時代になると、日本列島の多くの地域に稲作農耕が広まります。しかし、東北北部から北海道にかけては、縄文時代の文化や生活が色濃く残りました。東北南部以西で地方に有力な豪族が現れ、畿内の大和朝廷を中心に前方後円墳など巨大な古墳が築かれる時代になっても、東北北部の生活や文化はあまり変わらず、在地化した弥生文化、北海道を中心とした続縄文文化、東北南部からの古墳文化が混在した状況にありました。

弥生文化のはじまり

西日本で稲作農耕が広まり弥生文化が成立すると同時に、その影響は東北北部にまで急速に及びました。青森県では、弥生時代前期・中期の水田跡が発見されるとともに、西日本に特徴的な「遠賀川式(おんががわしき)」と呼ばれる大形の壺形土器が出土しています。
盛岡では弥生時代の遺跡の発見が少なく、水田跡もみつかっていませんが、中津川地区の向田(むかいだ)遺跡からは弥生時代前期(約2300年前)の「砂沢式(すなざわしき)」とよばれる高坏(たかつき)形土器が完形で出土していて、弥生文化が早くから伝えられていたことを知ることができます。同じ時期の土器は、都南地区の手代森(てしろもり)遺跡からも出土しています。
繋(つなぎ)遺跡からは、ひとつの穴にほぼ完形の壺形土器と甕形土器が埋納された状態で発見されていて、弥生時代中期の東北南部以南に特徴的な「再葬墓(さいそうぼ)」と考えられ、人や文化の交流をうかがうことができます
 

高坏形土器の写真
高坏形土器(向田遺跡)
壺形土器の写真
壺形土器(繋遺跡)
弥生土坑墓の写真
弥生土坑墓(繋遺跡)

北と南の接点

弥生時代後期になっても発見されている遺跡数は少なく、人々は痕跡をあまり残さない移動性・交易性の高い生活をしていたと考えられます。在地の弥生土器も「天王山式(てんのうやましき)」・「赤穴式(あかあなしき)」と呼ばれる、縄文土器に似た甕形土器の破片や、「アメリカ式石鏃」と呼ばれる特徴的な形の石器が出土するのみです。
東北南部で地方豪族により大形古墳が築かれ、「古墳文化」が広まるようになっても、東北北部までその影響はほとんど及びませんでした。一方、北海道では縄文時代からの生活や伝統を強く残した「続縄文文化」と呼ばれる独自の文化が広まりました。
中津川地区の永福寺山(えいふくじやま)遺跡では、1965年の発掘調査で、続縄文文化に特徴的な墓穴(土坑墓)が7基発見され、その中から北の続縄文土器「後北C2-D式(こうほくシーツー・ディーしき)」と南の古墳時代土師器「塩釜式(しおがましき)」が一緒に出土しています。また、近隣にある薬師社脇(やくししゃわき)遺跡からは、永福寺山遺跡と似た形の墓穴に、古墳時代土師器と多くの鉄製品、ガラス小玉や管玉の装飾品が副葬されて発見されました。
盛岡はこの時代、まさに北と南の文化の接点だったことがわかります。

続縄文土器の写真
続縄文土器(永福寺山遺跡)
古墳時代土師器の写真
古墳時代土師器(薬師社脇遺跡)
鉄製品の写真
鉄製品(薬師社脇遺跡)

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