盛岡市指定文化財 繋の板碑(石卒塔婆)

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広報ID1009366  更新日 平成28年8月21日 印刷 

繋の板碑(石卒塔婆)の写真

指定・区分

盛岡市指定 民俗文化財(有形民俗文化財)

名称・員数

繋の板碑(石卒塔婆)(つなぎのいたび(いしそとば))

所在地

繋字湯ノ館

保存団体名

個人

指定年月日

2011年(平成23年)3月24日

概要

この板碑は、湯ノ館山山麓の、共同墓地の中にある個人の墓地に存在する。この家は御所ダム建設以前、繋字下禰宜屋敷に所在し、同じところの大宮神社の別当を兼ねた羽黒修験山伏の末裔で、屋号は正福院である。この古碑も、元は下禰宜屋敷の当家墓地に存在したもので、昭和48年(1973年)、御所ダム建設に伴い、他の墓石等とともに現在地に移転した。
 石材は雫石町葛根田玄武洞等に産出する玄武岩を使用しており、石碑の正面上部に種子(梵字)を一字刻んだ種子塔で、板碑(石卒塔婆)と呼ばれる供養碑である。
 大きさは地上部分の高さが224センチ、太さは一辺が56センチから60センチで角柱状の自然石である。種子の発音は「ア」で、胎蔵界大日如来を示す。文字は刷毛書体・薬研彫りで鋭く刻まれており、他に記年銘などは無いが、石碑の形状や文字の様相から、概ね南北朝時代(1336年から1392年)の造立と考えられる。大形の供養碑であり、当時この地域の領主層の造立によるものと考えるのが自然であろう。
 墓地所有者は、繋に江戸時代初期から存在した旧家である。この地にはそれ以前の中世期に天台系の寺院が存在し、その寺とこの板碑との関連が指摘されている(司東1985)。この板碑がどのような趣旨で造立されたものか、詳細は不明であるが、近傍に存在する湯ノ館跡、舘市館跡等の中世山城跡や、繋III遺跡等の中世屋敷跡の存在からも、中世にこの地を領有した有力領主(武士階層)の存在が推定され、碑の大きさなどからも、この板碑の造立には、地元繋の領主が関係している可能性がある。
 この石卒塔婆は中世から繋に存在したものであり、盛岡周辺および県北地域では数少ない中世の板碑である。

参考文献
 司東真雄1985『岩手の石塔婆』
 盛岡市教委1973『御所ダム水没繋地区文化財調査報告書』
 盛岡市教委1988『盛岡市所在古碑調査報告書』

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