小笠原 哲二 略歴

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広報ID1003422  更新日 平成28年8月21日 印刷 

略歴

戦前から39年間にわたり、旧制岩手中学校や岩手高校等で美術を教えた。世間的な名声を求めず、「街の美」を題材にひたすら自分の描きたい絵を描き続けた。色彩豊かに四季折々の盛岡の風景を数多く描いている。1939年(昭和14年)から始めた個展は28回開催され、その展示作品は1000点に上るとも言われている。

  • 1903年(明治36年) 3月10日、九戸郡軽米町に父・吉助、母・ヒサの次男として生まれる。
  • 1922年(大正11年) 3月、岩手県立盛岡工業学校機械科卒業。
    4月、上京し、陸軍省航空しょう所沢製作所勤務。太平洋洋画研究所に入所し、鶴田吾郎・石川寅治らの指導を受ける。故郷に帰った後も、時折上京しては研究所に通う。
  • 1923年(大正12年) 10月、軽米町立軽米尋常高等小学校代用教員となる。
    第13回七光社展に「工場」、「暮るる冬の日」を出品。
  • 1926年(大正15年) 9月、尋常小学校本科正教員、図画科専科正教員の両免許状を取得し、正教諭となる。
  • 1927年(昭和2年) 3月、同校を依願退職。
    11月、盛岡市立仁王尋常小学校教員と結婚し、盛岡市小人町に住む。
  • 1929年(昭和4年) 9月1日、長女が誕生。
    10月、第4回素顔社展に「郊外の家」、「チューリップ」、「図書館裏より」等を出品。
  • 1930年(昭和5年) 7月から黒沢尻高等女学校嘱託教諭となる。
  • 1933年(昭和8年) 8月5日、岩手中学校嘱託教諭。
    9月20日、長男が誕生。
    「岩手の教育」の編集に参加し、カットを担当する。
  • 1934年(昭和9年) 岩手教育会嘱託となり、岩手教育「小学校練習帖」の表紙を担当する。
  • 1937年(昭和12年) 平館清七、荒浜栄悦らと「岩手教育美術協会」を結成。
  • 1941年(昭和16年) 第7回太平洋洋画展で入選。
    5月、岩手美術連盟(会長・小泉一郎)を結成、幹事に就任する。
    第3回個展を開催する。
  • 1947年(昭和22年) 「盛岡市内高等学校美術連盟」を結成し、海野経と共に顧問となる。
    第1回岩手総合芸術祭に出品。
  • 1980年(昭和55年) 77歳で死去。
  • 1981年(昭和56年) 教え子達により、大規模な「追想の小笠原哲二展」が開催される。

財団法人盛岡市文化振興事業団 佐々木繁美氏の資料から引用

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