出渕勝次(でぶちかつじ)

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広報ID1025221  更新日 平成30年12月17日 印刷 

出渕勝次(1878年~1947年)

平和外交につくした人

出渕勝次(でぶちかつじ)の写真

出渕勝次は1878年(明治11年)7月25日、第一大区一小区仁王村(現:盛岡市梨木町)にて旧盛岡藩士出渕勝応、ちうの次男として生まれた。盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現:一橋大学)に進んだ。
1902年(明治35年)、外務省に入省し、京城、上海、ベルリン在勤をへて、1914年(大正3年)、中国公使館一等書記官として北京に赴く。第一次世界大戦後、日本の「二十一か条の要求」に対し、中国の反日運動が激化、そのため日本はワシントン会議で非難を浴び、山東半島の利権を返還することとなる。この時出渕は山東還付委員として、青島と山東鉄道の返還処理にあたった。1923年(大正12年)、本省に戻りアジア局長、翌年には外務次官となる。1928年(昭和3年)、駐米大使としてワシントンに赴任した出渕は、満州事変や上海事変をはさむ5年の間、「排日移民法」の修正運動の推進など日米関係改善に努めた。軍部の意に背き関係改善を貫いたため、強硬派から強い非難を受けたが、出渕は“若い時に散々悲しい思いをしたから今では大抵の心配事も一夜明ければけろりと忘れてしまう”と語り変わらず振舞った。米国の新聞は“出渕大使は今日日本を支配しつつある軍閥とは全く異なる範疇に属す外交官であり、もし大使がこのまま更迭されるならば、過去4年間における大使の努力は水泡に帰すことになる。今後の日米関係がどうあるべきかを考えるならば大使更迭は断行し難いはずである”と出渕について評価している。
1935年(昭和10年)、外務省を退官し、翌年貴族院議員となる。1947年(昭和22年)には最初の参議院選挙に当選するが、惜しくもその4カ月後にこの世を去った。

掲載日:平成21年9月10日

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