斎藤 二男 略歴

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広報ID1003469  更新日 平成28年8月21日 印刷 

略歴

  • 1904年(明治37年) 1月1日、広島県呉市八幡上通にて、エンジニアの父・斎藤孝吉と母・イチの間に二男として生まれる。兄と妹二人の四人兄弟。父の勤務先が室蘭製鉄、明電舎へと変わるのに伴い、室蘭、東京と移り住んだ。
  • 1924年(大正13年) 東京美術学校西洋画科(現・東京芸術大学美術学部油画科)に入学し、岡田三郎助の指導を受ける。
  • 1929年(昭和4年) 同科卒業。卒業制作として「自画像」「海濱横臥裸婦」を描く。同年の卒業生は、橋本八百二、倉員辰雄、島村三七雄ら35名。
  • 1933年(昭和8年) 東京・敬愛小学校の図工教師を辞め、母校の東京・日本中学校の図工科教師として就職し、美術教育振興に努める。
  • 1934年(昭和9年) 岩手県盛岡市紺屋町にあった斎藤旅館の三女と結婚。東京・世田谷経堂(現・世田谷区宮坂)にアトリエのある住居を建て新居とする。
  • 1944年(昭和19年) 8月、太平洋戦争が激化したため、妻子を妻の郷里・盛岡市に疎開させ、休暇を利用し盛岡へ通うようになる。
  • 1946年(昭和21年)年~1948年(昭和23年) 終戦後も家族のいる盛岡に通い、細長く裁断したベニヤ板に岩山・姫神山などの盛岡風景を油彩で描いた作品を制作した。橋本八百二は、この頃、斎藤旅館を時々訪ねていた。
    終戦後は、所属する創元会展を中心に、日展でも出品を続けた。
  • 1949年(昭和24年) 岩手県盛岡市から、家族と共に東京・世田谷の自宅へ戻る。
  • 1960年(昭和35年)代後半 体の不調が続き、遠出はあまりできなかったが、信州や箱根、また、近くの柿生や鶴川などへは写生旅行で訪れた。その後、足を痛めて歩行が困難となり、自宅での制作を余儀なくされるが、庭の白梅・紅梅を格好の題材として画布に向かい、創元会展には毎年のように紅梅を題材とした作品を出品し続けた。
  • 1976年(昭和51年) 2月16日、東京・井上病院にて入院加療中に肺炎を併発し死去。
    4月、東京都美術館で開催された第35回創元展に遺作「杏花」が展示される。

財団法人盛岡市文化振興事業団 佐々木繁美氏の資料から引用

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