中村治兵衛(なかむらじへえ)

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広報ID1025021  更新日 平成30年12月10日 印刷 

中村治兵衛(1851年~1927年)

盛岡金融界の先覚者・盛岡銀行取締役

中村治兵衛(なかむらじへえ)の写真

中村治兵衛は1851年(嘉永4年)6月11日、長岡邦義の第六子として盛岡鍛冶町に生まれた。1871年(明治4年)10月、商家を営んでいた中村治郎兵衛に見込まれ、その婿養子となる。中村家は代々「糸屋」を名乗り、江戸時代から南部紫根染(なんぶしこんぞめ)布地問屋として産を成していた。治兵衛は明治、大正の盛岡財界の重鎮として活躍、北上回漕会社(ほくじょうかいそうがいしゃ)、盛岡銀行、盛岡電気株式会社などで取締役を務めている。
江戸時代には「南部むらさき」と呼ばれ、盛岡藩の主要物産の一つとして保護されてきた南部紫根染(なんぶしこんぞめ)だったが、明治維新以降は海外から流入してきた化学染料の勢いに押され、衰退の一途をたどる。しかし第一次世界大戦を機とした国産奨励運動により、時の県知事大津鱗平(おおつりんぺい)などからその復興が叫ばれるようになった。1916年(大正5年)、治兵衛は「南部紫根染(なんぶしこんぞめ)研究所」設立に協力、その商号を「紫草園(しそうえん)」とし、京都に遊学していた藤田謙をその技術主任として迎えた。藤田ら技術者の尽力と治兵衛らのバックアップにより南部紫根染(なんぶしこんぞめ)は復興され、展覧会などで多くの賞を受賞した。その技術は伝統工芸として今も盛岡に伝えられている。
また治兵衛は盛岡市議会議員や貴族院議員を務めた政治家、盛岡市新庄にある天満宮の造営や岩手県立実業学校(現:盛岡工業高校)設立などに関わった篤志家でもあった。

掲載日:平成17年3月25日

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