那珂梧楼(なかごろう)

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広報ID1025131  更新日 平成30年12月12日 印刷 

那珂梧楼(1827年~1879年)

漢学者

那珂梧楼(なかごろう)の写真

那珂梧楼(本名:通高)は1827年(文政10年)11月24日、出羽国大館(現:秋田県大館市)にて医師江帾(えばた)道俊の次男として生まれた。父道俊はのち盛岡藩に奥医師として仕える。梧楼も当初は江帾(えばた)姓であり、明治以降に那珂姓を名乗った。
18歳の時、藩主利済(としただ)の近習に挙げられるが、翌年には“声名を以て海内(かいだい)を驚かさざれば一生入らず鬼柳関(おにやなぎのせき)”の詩を残して脱藩する。そして江戸、京都、安芸などを遊学、その学才と直情的な性格は学友の畏敬を集め、多くの士と交友を結んだ。その中には清川八郎、吉田松陰、桂小五郎らがいた。1849年(嘉永2年)、梧楼の兄春庵(しゅんあん)が利済(としただ)の側近田鎖左膳に捉えられ入獄、その後獄死する。これを聞いた梧楼は仇討を画策、吉田松陰、宮部鼎蔵(ていぞう)とともに奥州に下る。白川で松陰らと別れた梧楼は潜伏して機会をうかがったが、先に利済(としただ)派が失脚、ついに本懐を遂げることができなかった。
1859年(安政6年)、江戸で隠士の如く暮らしていた梧楼を、盛岡藩が藩校明義堂教授として迎えた。1865年(慶応元年)には藩校の名称を作人館と改めるとともに、梧楼の唱える「和漢一致」が学風として取られ、名実ともに盛岡藩校の中心となった。しかし1868年(明治元年)、秋田戦争における盛岡藩の指導者として楢山佐渡、佐々木直作とともに捕らえられ、江戸へ護送される。その後は大蔵省、文部省に務めるも、1879年(明治12年)5月1日、友人との酒の席で亡くなった。

掲載日:平成19年11月25日

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