松本竣介(まつもとしゅんすけ)

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広報ID1025063  更新日 平成30年12月10日 印刷 

松本竣介(1912年~1948年)

線と色彩の画家

松本竣介(まつもとしゅんすけ)の写真

松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年(明治45年)4月19日、東京都多摩郡渋谷町(現:渋谷区)にて佐藤勝身、ハナ夫妻の次男として生まれた。松本姓となるのは1936年(昭和11年)、松本禎子と結婚してからである。
“絵を描くことが好きでありながら、画家になる望みを一度も持たなかった僕が、十四歳の時に聴覚を失ひ、この道に踏み迷ひ十五年の迂路を経た今日、やうやく、絵画を愛し、それに生死を託することの喜びを知りえたといふこと。それが、今、言ひ得る唯一のぼくの言葉です(中略)。”1940年(昭和15年)、竣介は画家になれた喜びをこう述べている。
2歳の時、父の仕事で岩手に移った竣介は、1925年(大正14年)盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)へ入学、同年病気のために聴覚を失う。後に絵画に目覚め3年で中退し上京、太平洋画会研究所に通い本格的に絵の勉強をはじめた。1935年(昭和10年)前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選を果たす。翌年にはエッセイ誌「雑記帖」を創刊、林芙美子や森荘已池らが文章を、藤田嗣治や麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。
1941年(昭和16年)、美術雑誌「みずゑ」に「生きてゐる画家」という文を寄せた竣介は、真正面からではないが当時の国家に対し反論を試みている。それは、軍部による言論統制が強まる中での、人間の尊厳を守ろうとする竣介の叫びだった。そして持てるエネルギーをぶつけるかのように制作に没頭した。「立てる像」などの多くの代表作がこのころに描かれている。

掲載日:平成17年6月25日

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