後藤清郎(ごとうせいろう)

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広報ID1025015  更新日 平成30年12月10日 印刷 

後藤清郎(1889年~1945年)

新聞界に活躍した人・新岩手日報創刊者

後藤清郎(ごとうせいろう)の写真

後藤清郎は1889年(明治22年)1月21日、稗貫郡好地村(こうちむら)(現:花巻市)にて後藤直助の三男として生まれた。盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)、第二高等学校(現:東北大学教養部)を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法科大学を卒業し、報知新聞や東京日日新聞(現:毎日新聞)で新聞記者として活躍した。
1913年(大正12年)、郷里に戻り岩手日報社に主筆として迎えられ、ここでも軽妙な筆と達意の文で多くの読者に支えられた。
しかし1931年(昭和6年)に起こった銀行パニックのため、日報社の営業側は新聞編集に関わる取材費を圧迫した。さらに言論の自由まで統制しようとしたため、営業側と後藤を中心とした編集側とで対立が起こる。1937年(昭和12年)、後藤らはついに日報社から分裂し、翌年には「新岩手日報」を発刊した。このため同時期に「岩手日報」と名のついた新聞が2つ存在するという珍事が起こった。後藤は慣れない経営に苦労したが、最終的に旧岩手日報が廃刊に追い込まれ、「新岩手日報」が勝ち残った。この「新岩手日報」が1951年(昭和26年)に「岩手日報」と名前を戻して今に至っている。
後藤はジャーナリストとしての先見の明にも優れており、昭和5年当時、テレビを怪物と称して自分たちの将来にも警告を発している。

掲載日:平成17年1月25日

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