盛岡の歴史と遺跡2(縄文時代1)
広報ID1009457 更新日 平成28年8月21日 印刷
遺跡の発掘調査からわかる盛岡の歴史を紹介(縄文時代編1)
縄文時代(約1万2000年~2300年前)1
縄文時代の人々は、森でクリやドングリなど木の実を集めたり、シカやイノシシといった動物を狩ったり、海や川で魚や貝などをとったりして、自然の豊かな恵みの中で生活をしていました。また、「土器」がつくられるようになったことにより食料の煮炊きや貯蔵ができるようになりました。そして、川に近く見晴らしのよい高台など、条件の良い場所に長く住み続けるようになり、大きなムラが出現するようになります。
縄文時代は、広い地域で似たような文様の土器が使われたり、ヒスイやコハクといった産地が限られるものが遠くへ運ばれたりと、人とモノが列島全域で交流していました。
土器の誕生
氷河期が終わり、約1万2000年前頃から気候が温暖化すると、森が広がりクリやドングリなど木の実が豊かに実るようになりました。しかし、それらは煮てアク抜きをしないと食べることはできません。人々は「土器」をつくりだすことで煮炊きが可能となり、より多くのものを食料とすることができたのです。
盛岡で出土した最も古い土器は、大新町(だいしんちょう)遺跡出土の「爪形文(つめがたもん)土器」で、約1万1000年前〔縄文時代草創期〕のものと考えられています。
それに続く、縄文時代早期の土器は底が尖り、小さな丸棒に線を刻んで回転させ菱形や格子目の文様をつける「押型文(おしがたもん)土器」、細い棒で横や斜めに直線を引く「沈線文(ちんせんもん)土器」、貝殻の縁を押しあて文様をつける「貝殻文(かいがらもん)土器」、撚ったひもを回転して文様をつける「撚糸文(よりいともん)土器」、ヘラ状工具を引いてはみ出し盛り上がった線を文様とする「微隆起線文(びりゅうきせんもん)土器」などが出土しています。厨川地区の大新町遺跡・館坂(たてさか)遺跡・宿田(しゅくだ)遺跡からは、まとまってこれらの土器が出土していて、全国的に例の少ない貴重な資料となっています。
大きなムラ
縄文時代中期〔約5000~4000年前〕になると、人々は条件のよい場所に長く生活するようになり、大きなムラがつくられるようになります。盛岡では、主な川やその合流点をのぞむ高台に地域の拠点的な大集落がみられます。繋(つなぎ)遺跡〔繋地区〕、大館町(おおだてえちょう)遺跡〔厨川地区・岩手県指定史跡〕、柿ノ木平(かきのきだいら)遺跡〔中津川地区〕、川目C(かわめシー)遺跡〔簗川地区〕がその代表で、たくさんの「竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)」が重なり合い、食料を貯蔵する巨大な穴も多数みつかっています。
大館町遺跡のムラは、中央に広場をもち、それを竪穴住居などが囲む「環状集落(かんじょうしゅうらく)」となっています。この時期の竪穴住居跡は、平面形が円形のものが多く、その床中央には石で囲んだ「炉 (ろ)」があり、煮炊きがされていました。
柿ノ木平遺跡では、多くの石を何重にも囲んだ大きな「複式炉(ふくしきろ)」もみつかっています。また、住居の床に穴を掘り、底に穴をあけた深鉢形土器を逆さに埋めた「伏甕(ふせがめ)」は、約50基発見されていて、全国的に非常に例の少ないものです。
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