盛岡の歴史と遺跡7(中世・近世1)
広報ID1009462 更新日 平成28年8月21日 印刷
遺跡の発掘調査からわかる盛岡の歴史を紹介(中世・近世編1)
中世・近世(鎌倉時代~江戸時代、約800年~150年前)1
11世紀後半の前九年合戦(ぜんくねんかっせん)、後三年合戦(ごさんねんかっせん)を経て、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)による東北全域を勢力とする平泉(ひらいずみ)政権が生まれ、時代は武家が治める中世へと移っていきます。12世紀末に源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府(かまくらばくふ)が成立すると、御家人(ごけにん)や在地領主による地域支配がはじまりました。彼らは小高い山の上や交通の要衝に、堀や土塁をめぐらせた居館(きょかん)や城館 (じょうかん)を築きました。その後、戦国時代にかけて長く戦乱が続いた末、戦国大名南部氏(なんぶし)が現在の岩手県北半から青森県東半一帯を領地とし、「不来方(こずかた)」と呼ばれていた北上川と中津川の合流点に居城と城下町を築きました。南部氏は江戸時代を通じて盛岡藩主となり、現在の盛岡市街地の原形がつくられました。
中世の居館と城館
12世紀の奥州藤原氏支配による平泉文化の一端が、中津川地区の堰根(せきね)遺跡でみつかっています、掘立柱建物と竪穴建物で構成された在地領主の屋敷跡と考えられ、素焼きの「かわらけ」のほか、東海地方常滑産の壺や甕、中国から輸入された白磁や青磁などの貴重な品々が出土しています。また、厨川地区の稲荷町(いなりちょう)遺跡は、自然地形に沿って堀をめぐらした居館(きょかん)跡で、内部に柵や塀で区画した領主の屋敷がみつかっています。
奥州藤原氏滅亡後、鎌倉幕府は東北各地に関東を拠点とする有力御家人を地頭として配置し、岩手(いわて)郡には工藤氏(のちに北条氏に代わる)、斯波(しわ)郡には足利氏(のちに分家し斯波氏を名乗る)が入りました。本宮地区の台太郎(だいたろう)遺跡では、東西160メートル・南北110メートルを不整五角形に堀をめぐらし、内部に大型掘立柱建物をもつ居館跡がみつかっていて、地頭に仕える在地領主の屋敷と考えられます。
室町時代から戦国時代にかけて、紫波郡高水寺には斯波(しば)氏、岩手郡東部には河村氏一族(玉山氏・日戸氏・下田氏)、不来方には福士氏、雫石には戸沢氏が、より堅固な城館を構え、各領地支配の拠点としました。今も堀跡の見える厨川地区の安倍館(あべたて)遺跡の現在の姿は、発掘調査で出土する陶磁器(とうじき)の年代から、工藤氏が16世紀に築いた「厨川城(くりやがわじょう)」と考えられ、岩手郡の拠点的な城館のひとつでした。
市内では、このような中世の居館跡や城館跡が約80カ所確認されています。
南部氏と盛岡城築城
16世紀の戦国の動乱時代、現在の青森県三戸地方を拠点としていた南部(なんぶ)氏は勢力をしだいに南下させ、1588年に南部信直(のぶなお)は紫波郡高水寺を拠点とするの斯波(しば)氏を滅ぼし、北は下北半島から南は和賀郡周辺までの広大な領地を、天下統一を果たした豊臣秀吉(とよとみひでよし)に認められます。
南部信直は、秀吉の重臣浅野長政(あさのながまさ)の助言により、北上川と中津川の合流点、岩手郡と紫波郡の境界であった「不来方館(こずかただて)」の地に居城を南下移転することとし、嫡子である利直(としなお、2代藩主)を総奉行に1597年(慶長2年)から盛岡城の築城を始め、翌1598年に秀吉より正式に築城許可の朱印状を得ています。そのような経緯もあり、盛岡城のつくりは秀吉築城の大阪城に似ているといわれ、中心となる「内曲輪(うちくるわ)」は川と堀に囲まれていて、1686年(貞享3年)までかけてすべて高石垣をめぐらし、東北随一の総石垣(そういしがき)の城といわれています。
南部氏は江戸時代を通じて盛岡藩主となり、17世紀後半には本丸の天守櫓(てんしゅやぐら、三階櫓ともいう)や隅櫓に赤瓦がふかれました。発掘調査では赤瓦や鯱(しゃちほこ)の破片も出土していて、盛岡藩10万石(のちに20万石)の中心として豪華な姿をあらわしていたことが、今に残る絵図とともにうかがえます。
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