盛岡の歴史と遺跡8(中世・近世2)
広報ID1009463 更新日 平成28年8月21日 印刷
遺跡の発掘調査からわかる盛岡の歴史を紹介(中世・近世編2)
中世・近世(鎌倉時代~江戸時代、約800年~150年前)2
城下町の整備
盛岡城の築城とともに、城下町も整備され、今も残る堀の内側(桜山神社や北側の商店街も含む)である「御城内」と呼ばれた「内曲輪(うちくるわ)」の外側に「外曲輪(そとくるわ)」と呼ばれる堀と土塁をめぐらしその中に家臣団が屋敷をかまえ、さらにその外側にも「遠曲輪(とおくるわ)」と呼ばれる堀と土塁をつくり、下級武士や町人を住まわせました。これらは現在道路や宅地になって姿を見ることができませんが、地割や発掘調査でその位置が確認できる場所もあり、戦時に備えた堅い城の守りを知ることができます。
城下町の中を流れる中津川(なかつがわ)には3本の橋がかけられ、上流の「上の橋(かみのはし)」の飾り「擬宝珠(ぎぼし)」には1609年(慶長14年)の年号が刻まれています。また、内曲輪の脇にまで蛇行していた北上川の流れは西に切り替られて城下への水害をおさえ、また各地を結ぶ街道には距離の目印となる一里塚(いちりづか)がつくられました。上田地区に残る上田一里塚〔岩手県指定史跡〕は、付近の松並木とともに江戸日本橋から続く「奥州道中(おうしゅうどうちゅう)」の名残を今にとどめています。
大名家の墓所
盛岡の市街地北部の北山にある「聖寿禅寺(しょうじゅぜんじ)」は、盛岡南部家の菩提寺(ぼだいじ)で、歴代藩主の墓所があります。第3代盛岡藩主南部重直(なんぶしげなお)は1664年(寛文4年)に江戸で死去し、領国盛岡に運ばれ、法要・埋葬が行われました。
墓石である五輪塔(ごりんとう)の解体修理に伴う発掘調査の際、甕棺として地下に埋められた東海産の常滑焼(とこなめやき)大甕の中から、火葬された遺骨と、副葬品の慶長小判(けいちょうこばん)や寛永通寳(かんえいつうほう)などが発見されていて、当時の大名家の葬礼を知ることのできる貴重な資料です〔盛岡市指定有形文化財〕。
ちなみに盛岡南部家では、江戸で暮らす藩主の正室は亡くなると江戸で埋葬されおり、東京タワーに隣接する東京都港区の「金地院(こんちいん)」に盛岡南部家の墓所があります(八戸南部家、七戸南部家、盛岡南部家一族の遠野南部家の墓所も金地院にあります)。
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