盛岡の歴史と遺跡6(古代2)
広報ID1009461 更新日 平成28年8月21日 印刷
遺跡の発掘調査からわかる盛岡の歴史を紹介(古代編2)
古代(飛鳥・奈良・平安時代、約1400年~800年前)2
平安時代のムラ
中央政権である朝廷により出先機関である志波城がつくられ、それを通じて新しい技術がもたらされることにより、9世紀からムラの数が急増するようになります。前代のエミシのムラも、住居の配置をより川に近い場所に移しながら継続する一方、志波城と強い関係を持つムラが新たに営まれるようになります。太田地区の館・松ノ木(たて・まつのき)遺跡では武具である鉄鏃(てつぞく)が多量に出土し、また本宮地区の小幅(こはば)遺跡や中津川地区の堰根(せきね)遺跡では役所的な大型掘立柱(ほったてばしら)建物が発見されています。
住居の構造は大きな変化がないものの、カマドは前代とは逆の住居の東辺または南辺につくられるものが多いのが特徴です。また、飯岡地区の飯岡才川(いいおかさいかわ)遺跡では高床(たかゆか)倉庫群が発見され、飯岡林崎2(いいおかはやしざき2)遺跡では大型竪穴住居から多量の炭化米(たんかまい)が出土するなど、稲作の生産力が高かったことがうかがえます。
生活用具は、ロクロを使ってつくった坏や甕へと変化し、鉄製の農具・工具も普及しました。墨で文字を書いた「墨書土器(ぼくしょどき)」が出土することもあり、地名や施設名、人名、縁起のいい言葉といった、当時の様子を知ることのできる貴重な文字資料です。
安倍氏・清原氏の時代
9世紀中頃には徳丹城も廃止され、鎮守府(ちんじゅふ)胆沢城が唯一の朝廷の拠点となります。
10世紀になると、廃止となった志波城跡地の東に隣接する林崎(はやしざき)遺跡で、かつての志波城政庁建物に匹敵する規模の大型掘立柱(ほったてばしら)建物がつくられ、「寺」と書かれた墨書土器や、灯明皿(とうみょうざら)として使われたと考えられるあかやき土器の坏が出土しています。また羽場地区の大島(おおしま)遺跡では、大型竪穴住居と高床倉庫群とともに、役人の革帯飾りである石帯具(せきたいぐ)が出土しています。これらの遺跡は胆沢城に仕える斯波郡の在地有力者の拠点であったと考えられ、文献にもそれら有力者を示す「物部斯波連(もののべのしわのむらじ)」の姓をもらう人物の記事がみられます。
11世紀には、鎮守府胆沢城の在庁官人であった安倍頼時(あべのよりとき)が実質的に奥六郡(おくろくぐん=北上盆地一帯)の統率者となって、本拠地鳥海柵(とのみのさく)〔金ヶ崎町〕をはじめ各地に独自の柵を築き、子の安倍貞任(あべのさだとう)が最北の厨川柵(くりやがわのさく)を拠点としました。現在その遺跡を確定することはできませんが、厨川地区の安倍館町から天昌寺町、大館町にかけての一帯が想定されます〔安倍館(あべたて)遺跡・里館(さたて)遺跡・大館町(おおだてちょう)遺跡など〕。
1051年(永承6年)から始まる前九年合戦(ぜんくねんかっせん)により、安倍氏一族は厨川柵に滅び、山本三郡(やまもとさんぐん)を拠点としていた清原氏が北東北一帯を支配するようになります。
しかし、清原氏も、一族の内紛に始まる後三年合戦により清原清衡(きよひら)が東北全域を領地とすることとなり、姓を藤原に改め、平泉を拠点とする奥州藤原氏による支配の時代が始まります。
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