盛岡城跡 盛岡城の歴史
広報ID1009471 更新日 平成29年12月22日 印刷
- 指定・区分:国指定 記念物(史跡)
- 名称・員数:盛岡城跡(もりおかじょうあと)
- 所在地:盛岡市内丸1 岩手公園
- 所有者・管理者名:盛岡市
- 指定年月日:1937年(昭和12年)4月17日
盛岡城の歴史
南部氏(なんぶし)は、甲斐源氏(かいげんじ)の一族でしたが、南北朝時代のころより糠部(ぬかのぶ)(青森県三戸郡・八戸市周辺)に基盤をおき、室町・戦国時代にはしだいに勢力をのばして、奥州(おうしゅう)北部の有力大名に成長します。
1588年(天正16年)、南部信直(なんぶのぶなお)(初代盛岡藩主)は斯波氏(しばし)を滅ぼし、1590年(天正18年)には豊臣秀吉(とよとみひでよし)から、南部七郡の領有を認められます。翌1591年(天正19年)、秀吉の重臣浅野長政(あさのながまさ)の助言により、信直は三戸(さんのへ)から不来方(こずかた)に居城の移転を決定。1597年(慶長2年)には、嫡子(ちゃくし)の利直(としなお)(2代盛岡藩主)を総奉行(そうぶぎょう)に鋤(すき)(鍬(くわ))初(はじめ)が行われたと伝えられ、翌1598年(慶長3年)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。
この地は、旧北上川と中津川の合流点の丘陵で、かつて南部氏の家臣福士氏(ふくしし)の不来方城(こずかたじょう)(淡路館(あわじだて)・慶善館(けいぜんだて))が存在した場所です。ここに、新たな縄張(なわばり)で石垣を巡らし、本丸・ニの九・三の丸を築きました。また、内丸から本町方面、中津川対岸の内加賀野・紺屋町・肴町・穀町方面にも、外曲輪(そとくるわ)や総構(そうがまえ)(遠曲輪(とおぐるわ))の堀を巡らし、さらに1609年(慶長14年)から1612年(慶長17年)にかけて中津川両岸が上の橋・中の橋・上の橋で結ばれ、城下町の建設と整備が進められました。以来盛岡は、江戸時代を通じて盛岡藩の中心として栄え、現在の盛岡市へと引き継がれます。
明治の廃藩置県の後、城は1872年(明治5年)には陸軍省所管となり、1874年(明治7年)に城内建物はほとんど取り壊されました。1903年(明治36年)に岩手県により公園整備が開始され、1906年(明治39年)に「岩手公園」として開園しました。
その後所管は盛岡市に移され、国指定史跡となり、東北随一の美しい石垣を見ることができます。1984年(昭和59年)からは、市が石垣修復工事と発掘調査を行っています。
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