盛岡市の歴史

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広報ID1009334  更新日 平成31年2月4日 印刷 

盛岡市の歴史の流れをご紹介します。

盛岡のあけぼの 先史〔旧石器・縄文・弥生時代、約8万年前~1700年前〕

旧石器、縄文、弥生時代の出土資料などの写真
旧石器、縄文、弥生時代の出土資料などの出土資料

盛岡市内には古くから人々が暮らしていた痕跡が、たくさん見つかっています。
盛岡市内で最古の人類の遺跡は、玉山地区の小石川遺跡で、約1万3000年前の旧石器時代の地層から、槍の先につける石器(尖頭器(せんとうき))が見つかっています。また、最古の土器は、厨川地区の大新町遺跡から出土した爪形文(つめがたもん)土器で、約1万1000年前の縄文時代草創期のものです。
約5000年前から始まる縄文時代中期になると、河川ごとに拠点的な大集落がつくられます。繋遺跡(繋地区)、大館町遺跡(厨川地区・岩手県指定史跡)、柿ノ木平遺跡(浅岸地区)、川目遺跡(簗川地区)が代表的で、その規模は岩手県内屈指です。特にこの縄文時代中期の特徴をよくあらわした美しい大木式(だいぎしき)の土器として、繋遺跡出土の深鉢形土器は国の重要文化財、柿ノ木平遺跡出土土器群は盛岡市の有形文化財に指定されています。約3000年前から始まる縄文時代晩期には、細かい文様の大洞式(おおぼらしき)土器が多くつくられ、玉山地区の宇登1遺跡からは土面、都南地区の手代森遺跡からは大型遮光器(しゃこうき)土偶(国指定重要文化財)といった祭祀(さいし)の道具が出土しています。
西日本で稲作を基盤とした弥生文化が成立すると、その影響は東北北部まで及び、浅岸の向田遺跡や都南地区の手代森遺跡から、弥生時代前期の砂沢式の高坏や壷がまとまって出土しています。

盛岡市遺跡の学び館

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盛岡市遺跡の学び館の写真

盛岡市遺跡の学び館(いせきのまなびかん)は、盛岡市内にある遺跡(埋蔵文化財)の発掘調査・報告書刊行、出土品の収蔵のほか、考古資料の展示会、ものづくり体験学習会、文化財関係講座・講演会などを行う、考古歴史系ミュージアムです。

稲作の定着と蝦夷(エミシ)と国家 古代〔古墳・奈良・平安時代、1700年前~900年前〕

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古代の出土資料など写真

4世紀(約1700年前)以降の古墳時代、盛岡周辺は北海道を中心とした縄文時代的な暮らしを続けた北方の続縄文文化と、東北南部以南の大型古墳を作る古墳文化の合流点でした。浅岸地区の永福寺山遺跡や薬師社脇遺跡では、続縄文文化的な墓穴に、続縄文文化の土器と古墳文化の土器(土師器)や鉄製品、ガラス小玉などが一緒に副葬されていました。

その後、稲作農耕が広まっても冷涼だった東北北部は大型古墳がつくられることはなく、畿内を都とする律令国家の勢力外であったことから、人々は「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていました。その族長は「末期古墳」と呼ばれる小型の円形古墳に葬られました。高舘古墳(飯岡地区・盛岡市指定史跡)や永井古墳群(玉山地区)のほか、上田蝦夷森古墳群(上田地区)からは鉄兜(岩手県指定文化財)、太田蝦夷森古墳群(太田地区)からは和銅開珎(わどうかいちん・古銭)や帯金具・勾玉・ガラス小玉が出土しています。当時のエミシたちが政府と交流を持ちながら暮らした社会がうかがえます。
8世紀後半になると、現在の雫石川南岸地域から矢巾町・紫波町の範囲を示す「志波村」との表記が文献に登場し、盛南開発地区の発掘調査でも多くのエミシたちの集落が発見されています。
平安時代初頭、803年に桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が北東北経営の拠点として太田・本宮地区に広大な志波城(しわじょう)(国指定史跡)を造営しました。志波村の範囲は「斯波郡」、雫石川以北は「岩手郡」と呼ばれました。10世紀には、林崎遺跡(太田地区)や大宮遺跡(本宮地区)、大島遺跡(幅地区)などで、地元エミシ系地方豪族の大型建物群跡が発見されており、政府の地方支配の中から勢力を増してきたことがうかがえます。

志波城古代公園

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志波城古代公園の写真

平安時代の初め(803年)、政府が征夷大将軍・坂上田村麻呂に命じて造営した古代陸奥国最北・最大級の城柵(東北地方を治めた役所)です。歴史的重要性から1984年(昭和59年)に国の史跡に指定されました。盛岡市は発掘調査の成果を基に復元整備し、志波城古代公園として開園。多くの市民に歴史を感じることができる憩いの場として親しまれています。

群雄割拠の時代から南部氏の時代 中世・近世〔平泉期・鎌倉時代~江戸時代、900~200年前〕

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中世近世の出土資料などの写真

11世紀には、在地エミシ系勢力のリーダーとなった安倍氏が奥六郡(おくろくぐん)と呼ばれた岩手県中北部の統率者となりましたが、前九年合戦(1051年~)で岩手郡の南端に構えた厨川柵(詳細な場所は不明。安倍館町・天昌寺町・大館町付近一帯か)に滅びます。

後三年合戦を経て、12世紀には奥州藤原氏による東北全域を勢力とする平泉政権が成立、時代は武家が治める中世へと移行します。繋地区の一本松経塚出土渥美灰釉壷(岩手県指定文化財)は、平泉を通じて東海地方の渥美窯から搬入された貴重な製品です。
12世紀末に源氏が奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府が成立すると有力御家人が地頭として配置され、岩手郡には工藤氏、斯波郡には足利氏が入りました。
室町時代から戦国時代にかけて、紫波郡の斯波氏(高水寺城)、岩手郡東部の河村氏一族(玉山館)、不来方の福士氏(不来方城)などの武将は堅固な城館を拠点に領地を支配しました。厨川地区の安倍館遺跡の現在残る堀跡等は、工藤氏が16世紀に築いた「厨川城」で、県北部から南下する南部氏と対峙する岩手郡の拠点的城館でした。
 

岩手県北部から盛岡周辺では、志和郡(紫波町)を拠点とする斯波氏と三戸(青森県三戸町)を拠点とする三戸南部氏の二大勢力が覇権を争い、この戦いに勝利した三戸南部氏26代南部信直が、豊臣秀吉から岩手郡を含む7郡の本領を安堵され、盛岡藩が誕生しました。
盛岡藩の2代藩主利直の時代に城下町の建設が大きく進展します。町割りは、城の周りに二重の外堀を巡らせ、上方や江戸から迎え入れた商人や職人が町を囲み、その外側に三戸から移ってきた武士の屋敷や寺院を配置したもので、新しい時代の軍事や商業、交通などに対応する環状市街地が形成されました。
 

「盛岡(もりおか)」の地名は、慶長11(1606)年の南部利直の算用状には使われており、この前後に定まったと伝えられます。南部氏は江戸時代を通じて盛岡藩主となり、城下町が現在の盛岡市街地の原形となりました。これが、現在でも盛岡の中心市街地の基本的な骨格となり、城下町の情緒と風格が「盛岡らしさ」として残っています。

盛岡城下古絵図
盛岡城下古絵図(もりおか歴史文化館収蔵)

もりおか歴史文化館

もりおか歴史文化館の写真

盛岡の近世以降の歴史と文化に関する資料を展示・紹介するとともに、まちなかの情報を提供する施設として2011年(平成23年)7月に開館。2階は歴史常設展示室「歴史と文化の回廊」として、盛岡の歴史や文化に触れる6つのコーナーで構成。城下町成立の背景と城・城下町、盛岡の近代化、南部家の資料を展示し、盛岡の歩みをひもときます。

文明開化、近代都市盛岡 近代現代〔明治時代~、200年前~〕

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近代の写真

新しい時代を迎えた明治維新(1868年)の廃藩置県により、盛岡藩は盛岡県、その後岩手県に変わりました。そして1889年(明治22年)の市町村制施行により、全国39都市の一つとして人口2万9190人、面積4.47平方キロメートルの県都盛岡市が誕生しました。
1874年(明治7年)には藩政の象徴であった盛岡城の建物群は取り壊されましたが、その後1896年(明治39年)に長岡安平の設計により整備され、岩手公園として公開されました。現在でも盛岡城跡公園として、今に残る東北随一の美しい石垣は古いまち並みとともに、盛岡の長い歴史と文化を私たちに伝えています。
一方、市街地は明治維新以降、県都として街づくりが進みました。1911年(明治44年)には明治期を代表する建築家辰野金吾と葛西萬司による「岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館」(国重要文化財)が建てられるなど、多くの近代的な建物が建てられました。1905年(明治38年)には、盛岡電力株式会社(現東北電力株式会社)によって、川目に県内初の水力発電所「旧宇津野発電所」(市指定文化財)が建設され、市内に電気が通りました。
 

また明治期以降の盛岡からは、国際連盟事務次長を務めた国際人・新渡戸稲造、太平洋戦争の終結に尽力した米内光政、アイヌ語の研究の先駆者・金田一京助、平民宰相として活躍した原敬、望郷の歌人・石川啄木など、多くの人材を輩出しています。
 

盛岡市は、1989年(平成元年)に市制施行100周年を迎え、1992年(平成4年)4月には南に隣接する都南村と、2006年(平成18年)1月には北に隣接する玉山村と合併し、人口約30万人、面積886.47平方キロメートルの新生盛岡市となりました。また、2008(平成20年)年4月には中核市へと移行し、県から民生や保健衛生、環境、都市計画などの行政分野における事務の移譲を受け、新たなスタートを切り、現在に至っています。
 

盛岡市先人記念館

新渡戸稲造、米内光正、金田一京助をはじめ、明治維新以降に活躍した盛岡ゆかりの先人130人を紹介する人物博物館。

原敬記念館


大正時代に平民宰相として活躍した原敬。その生家と庭園に隣接。愛用品や47年間書き続けた日記、暗殺時に着用していた衣服など展示。

石川啄木記念館

望郷の歌人石川啄木の資料館。

盛岡てがみ館

盛岡ゆかりの先人たちの手紙を中心とした博物館。
 

都南歴史民俗資料館

盛岡市南部の都南地区の民俗資料を収蔵展示。

玉山歴史民俗資料館

玉山地区の民俗資料を収蔵展示。

盛岡の先人たち

先人記念館で紹介している130人を紹介。

歴史を物語る文化財

盛岡の歴史を物語る有形無形の遺産は、文化財として保護されています。

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