しわじょうってなに?

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広報ID1009483  更新日 令和3年4月26日 印刷 

志波城(しわじょう)は、いまから1200年前の平安時代(へいあんじだい)につくられた、役所(やくしょ)なんだ。

そのころの日本は、京都に都(みやこ)があって、「律令国家(りつりょうこっか)」という、天皇(てんのう)をちゅうしんとした国(くに)づくりがおこなわれていたんだ。

今のもりおかのあたりは、その国(くに)のそとにあって、とうほくちほうにすんでいた人たちは、都の人たちから「蝦夷(えみし)」とよばれていたんだ。

律令国家は、蝦夷たちもなかまにしようとして、「城柵(じょうさく)」という役所をつくり、えんかいをしたり、おくりものをしたり、といった儀式(ぎしき)をおこなっていたんだ。

でも、それにはんこうする蝦夷たちもいたんだ。
いまの奥州市(おうしゅうし)ふきんにいたアテルイやモレという人たちは、律令国家の軍隊(ぐんたい)とたたかった蝦夷としてゆうめいだね。
一方で、国のなかまになりたがっていた蝦夷たちもいたんだよ。志波城のつくられた志波村(しわむら)の蝦夷は、志波城のできる前には、なかまになりたいといっていたという記録(きろく)がのこっているんだ。

志波城は、東北地方に20かしょいじょうつくられた城柵(じょうさく)のひとつで、陸奥国(むつのくに)とよばれた東北地方の東側の一番北に、一番大きくつくられた城柵だったんだよ。
志波城をつくったのは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という、蝦夷たちとの交渉(こうしょう)をした最高責任者(さいこうせきにんしゃ)(征夷大将軍 せいいたいしょうぐん)によってつくられたんだ。

でも、志波城の北をながれる雫石川(しずくいしがわ)が、なんどもはんらんして洪水(こうずい)になり、そのひどいひがいをうけてしまい、つくられてから約10年後には、「徳丹城」(いまの矢巾町西徳田)をあたらしくつくってひっこしてしまったんだ…。
この洪水のあとは、はっくつちょうさでもみつかっているんだよ。

志波城跡 全景写真
志波城跡の全景
しわまろくんのイラスト
志波城古代公園マスコット しわまろくん

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