しわじょうQ&A

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広報ID1009486  更新日 平成28年8月21日 印刷 

来園者のみなさまや、メールなどでよせられた質問などにおこたえします。

どうぞお気軽に古代公園のアンケートやメール、お手紙をおよせください。
できれば、お名前・年齢・性別・お住まいなどもお書き添えください。
なお質問内容や回答について、当方からお手紙やメールでg回答することがございます。

志波城について

志波城は盛岡にあるのに、なぜ「しわ」じょうというの?(50代 男性)

回答:
現在、「しわ」という地名は、盛岡市の南に隣接する紫波郡、紫波町などがありますが、平安時代には、盛岡市の南部(雫石川以南?)から旧石鳥谷町北部くらいまでが、「斯波郡(しわぐん)」とよばれていたようです。
このことから、志波城は斯波郡という行政区域の名前をつけた城柵だったことがわかります。

志波城にはトイレはなかったの?(10代 男性)

回答:
残念ながら、まちがいなくトイレだといえる跡は、見つかっていません。しかし、秋田城(秋田県秋田市)では、「水洗トイレ」が見つかっています。志波城ではどんなトイレをつかっていたのでしょうかね。

外大溝と外郭築地塀のあいだは、なにもないひろばになっているけど、敵に攻められた時にはだいじょうぶだったの? (60代 男性)

回答:
発掘調査では、外大溝と外郭築地塀の間には、何の遺構も見つかりませんでした。これには様々な意見がありますが、こんな説があります。
当時の弓矢の有効射程距離は、約30メートルだったといいます。外大溝と外郭築地塀の間が約30メートル、櫓は約60メートル間隔で設置されている、ということから、もし敵が攻めてきても、外大溝をのりこえた敵は身をかくす場所も無く、弓矢で射れるようにするためではないか、という説です。

志波城内では、馬はかっていたの?(30代 男性)

回答:
城内の発掘調査では、鉄製の馬具(轡 くつわ)が出土したり、馬の歯が出土しています。このことから、馬を飼っていたと考えられます。明確な馬小屋跡はみつかっていません。徳丹城跡では、馬小屋の可能性もある建物跡がみつかっています。

建物の屋根に瓦はつかわれていないの?(50代 女性)

回答:
志波城内の発掘調査では、瓦が出土していません。
だから、志波城内の建物は、瓦を使っていなかったと考えられます。
復元では、「コケラ葺き(ぶき)」や「栩葺き(とちぶき)」という屋根の葺き方で整備しました。ほかにも桧皮葺き(ひわだぶき)というものもあります。
この違いは、葺く板材の違いです。
「コケラ葺き」は、極めて薄い割り板を何枚もかさねて葺いた屋根です。魚のウロコのように見えることから、コケラ葺きというそうです。政庁南門の復元では、厚さ3ミリメートル~5ミリメートル程度に割ったサワラ割り板材を使用しています。
「栩葺き」は、それよりもずっと厚い板を用いて葺いたものです。トチノキを使ったわけではありません。官衙建物の復元では、厚さ1センチメートル~2センチメートル程度の杉の割り板材を使用しています。外郭南門の復元では、2.4センチメートルの厚さのサワラの割り板を使用しています。「桧皮葺」は針葉樹の樹皮を用いて葺くものです。
官衙建物展示室内のビデオで、この屋根を葺く作業の映像をみることができます。屋根職人さんのすばらしい技が、みれますよ。

志波城の復元には釘をつかっていないの?(30代 男性)

回答:
鉄の釘を使っています。発掘調査でも鉄釘が出土しています。釘といっても、現在の釘とはずいぶん違います。断面が四角形で、あたまは折り曲げて作られています。

志波城はこれからどうなるの?また、正殿は復元しないの?(60代 女性)

回答:
現在実施中の第2期整備計画では、今後、政庁東辺から北辺部周辺の整備を進めることになっています。政庁域の建物の表示や便益施設の整備、防火施設の整備などを行う予定です。
古代公園来園者アンケートや地域のみなさまからよせられた声をもとに、今後どのような整備が必要か、検討していきたいと思います。
また、正殿の復元は、おそらくされることはないと思います。
遺跡の復元整備は、すべての建物などを復元すればいいというものではないと思うからです。全てを復元すれば、当時の姿はわかりやすくはなるかもしれません。しかし、その復元が当時の本当の姿なのかという証拠(記録写真や記録図面)がない以上、想像の域をでません。現在、復元に当たっては、発掘調査の成果をもとに、現存する古建築や古絵図などを検討し設計していますが、その姿が絶対に1200年前の志波城の姿である、とはいいきれないものです。
それでしたら、発掘調査で間違いなくみつかった建物の位置表示のみをして、来園者の方の頭の中で、当時の姿に復元してもらってもいいはずです。この先の未来において、タイムマシンなどの当時の様子を知ることのできる新技術が発明されたら復元するのもいいかもしれませんが、それまではあらゆる情報からみなさんに当時の姿を思い描いてもらうのも、夢があるとおもいますが、いかがでしょうか。

政庁南門にある目隠塀は、ほかの門にはなかったの?(20代 男性)

回答:
発掘調査の結果では、政庁南門以外の門に目隠塀はみつかっていません。
政庁の正門である南門が重視されていたと考えられます。門のまえで行われる儀式(伺いをたてる等)があったといわれていますが、それ行われるのも南門であったと考えられます。一方、東西門や北門はどんな役割だったのか、ということは検討しなければならない課題です。

官衙建物展示室の役人模型は床よりも一段高い台に座って仕事をしてますが、当時もそうだったのですか?(30代 女性)

回答:
復元された官衙建物の役人は、皆さんに仕事の様子をわかりやすくする見せるために一段高いところに座らせました。
建物によって異なりますが、床のあったものなら床に、床の無かったものは土間に、円座などを敷いてすわり、机に向かって仕事をしていたと考えられます。

城内にたくさん住んでいたといわれる兵士などは、家族と一緒にいなかったの?(60代 男性)

回答:
これまでの発掘調査では、今のところ志波城跡の隣接地には、同じ時期の集落があまり見つかっていません。そのかわりに、城内におびただしい数の住居跡が見つかっています。
このことや当時の記録文献、他の城柵のありかたなどから、志波城につれてこられた人たちについては、2つの考えかたができます。ひとつは家族ごと「移民」としてつれてこられている場合、もうひとつは専用兵士として、男だけが単身赴任している場合です。
出土している墨書土器に「上総」や「佐み(方へんに弥のつくり)」という文字が見られますが、これはそれぞれ、千葉県付近と新潟県の地名をあらわすものです。このことから、ずいぶん遠くから人が来ていたことが想定されます。

高床の建物はなぜ床が高かったの?ヘビやネズミなどから身を守るため?湿気をさえぎるため?(70代 男性)

回答:
発掘調査では、城内で見つかっている建物のうち、一定の格式のあるもの(政庁・官衙域)からは、床束(ゆかづか・床を支える柱)の跡が見つかっています。また、正殿・脇殿は、足場穴(建築や解体時の足場を建てた跡)や床束の見つかり方から、一定の高さを持つ高床の建物だったと考えられています。
これはいわゆる倉庫のように、ネズミや湿気対策のためばかりでなく、神社のお社のように、格式の高い建物だったためと考えられています。官衙展示室のコンピューターグラフィックによる復元映像も、そういうわけで高床で表現しています。

官衙建物の窓の戸は「蔀(しとみ)」ですか?(60代 男性)

回答:
いいえ、いわゆる「突き上げ窓」です。「蔀(しとみ)」は、平安時代の寝殿造りなどにみられる建具の一種で、格子状の釣り戸を指します。

外郭南門は何のためにあったの?(10代)

回答:
古代の施設などでは、南側の門が正門になります。志波城の場合は、外郭南門が正門です。来訪者を迎える大事な門であると同時に、守衛や見張りのための櫓の役割も持っていたものと考えられます。

なぜ櫓(やぐら)は約60メートル間隔で並んでいるの?(10代)

回答:
当時の弓矢の有効射程距離は約30メートルだったようです。志波城の場合、外大溝から築地塀までの距離が約30メートル、そして櫓が約60メートル間隔で並んでいたので、もし敵襲などがあった場合は、外大溝をのりこえてきた敵を、櫓の上から狙って射ることができるようにと考えてあった可能性があります。

志波城はなぜこのような形に設計・建設されたの?(10代)

回答:
志波城は古代の城柵という、朝廷が築いた役所です。朝廷は、日本を「国」・「群」・「里」という行政区画で統治し、それぞれに役所を設置しました。城柵は東北地方に約20ケ所造られた役所です。
この役所の形は、もともと古代の中国やオリエントなどで見られた「都城制」と呼ばれる周囲に城壁をめぐらせた都市をモデルにしています。日本では、694年~710年に営まれた「藤原京」(奈良県橿原市)が初めといわれています。四方を囲み、その中心付近に現在の国会議事堂にあたる「大極殿」や「朝堂院」、天皇の生活する「内裏」のなどがおかれた「宮」がおかれました。
このスタイルが少しずつ形を変えながら、その場所にあったスタイルをとりながら作られていったのです。志波城も四方を「築地塀」で囲み、中心やや南よりに「政庁」が設置されています。

志波城には何人くらいの人が働いていたの?(10代)

回答:
城内に配置されていた正確な人数はわかりません。しかし、いくつかのヒントがあります。
ひとつめは、当時の記録、『日本紀略 弘仁二年十二月十一日条』に、時の征夷将軍の文室綿麻呂がこのように言った記録があります。
「…志波城は河に近くたびたび洪水の被害にあってきました。ですから、この志波城から新しく徳丹城という城柵を作って引越しをしたいが、いいでしょうか。その引越しにあたっては、2000人を守衛にあたらせつつ行います。引越しが終わったら、1000人をその場にとどめて、しばらく守衛に当たらせ、必要がなくなったら解散させたいと思います。…」
このことから、志波城内には2000人以上の人員(兵士など)がいたことがわかります。
もうひとつは、竪穴住居跡の数です。志波城内には約1000棟~2000棟の竪穴住居があったと考えられます。竪穴住居は一辺が約5メートル程度の四角の形をしていました。ここに2人~4人がくらしていたとすれば、単純に考えて2000人~8000人が城内にいたことが推定できます。

志波城における柵戸の規模はどれくらいあったのか。(男性60代)

志波城に「柵戸」(関東甲信越地方などからの移民)が配置された事実については、具体的に文献資料等から読み取ることはできません。
柵戸は、天平宝字元年(757年)の宮城県北部の桃生城などの造営時に配置されています。延暦21年(802年)に関東甲信越から、胆沢城に配置されています。これ以降、柵戸の記録はありません。
このこと、および発掘調査成果から、志波城においては明確に柵戸が配置された証拠は見て取れません。一方、志波城には、「鎮兵」が配置されていたことが文献資料等から読み取れます。数千人規模だったと思われます。鎮兵は、鎮守府という陸奥出羽の警備のための役所に配属された専門兵士です。はじめは東国(関東甲信越)、その後陸奥国南部(宮城・福島県域)から徴用され、東北北部の警備のため、胆沢城・志波城に配置されました。
宮城県北部の城柵や胆沢城においては、周辺に陸奥国南部や関東甲信越地方から柵戸(農業をする移民)が計画的に配置され、集落を形成し、地元の蝦夷(えみし)と呼ばれた人々との同化政策がとられたと考えられます。しかし、志波城の周辺においては、これまでそのような集落は見つかっていません。むしろ、志波城の周辺では、既存の蝦夷の集落が大きな変化をせずに存続していた様子が、発掘調査の成果から見て取れます。(志波城造営前後における集落の土器のあり方の変化が大きく見えないこと、墳墓の在り方が継続すること、など)
 このことから、志波城の設置において坂上田村麻呂は、従前の柵戸を配置し同化する政策ではなく、既存の集落を生かした政策をとった可能性も考えられます。  
 

志波城には1日に何人くらいの人が訪れたの?(10代)

回答:
わかりません。当時の記録にも、発掘調査からもわかりません。しかし、志波城は造営後に設置された「和賀郡」・「稗縫郡」・「志波郡」を統治した役所と考えられる上に、盛岡よりも北のエミシたちにも対応をしていたと考えられますので、相当な数の人々が訪れたのではないでしょうか。

歴史について

「蝦夷(エミシ)」ってどんなひとたちだったの?(50代 男性)

回答:
なかなかむずかしい質問ですが、一言で言えば、「朝廷(ちょうてい)の勢力下(せいりょくか)にいなかったひがしの人々」とでもいえるでしょうか。これは時代によって、そのさす人々が変わっていくものだったと考えられています。
「エミシ」という言葉は、古くは「強い人」・「おそろしい人」という畏敬(いけい)の念をもった言葉だったと言われています。
ではどのようにして、エミシが東北地方の人々をさすようになっていったのでしょうか。
中央の人たちにとって「強い人」「おそろしい人」は、古くはまわりに多くいたのでしょう。しかし朝廷がまわりを平定し、大化の改新(645年)頃には、その存在は主に東北地方にかぎられるようになったと考えられます。中央の人たちにとって「強くておそろしい人」から、「とおくにいるよくわからない人」という変化をして、東北地方の人たちをさすようになったと考えられます。
以後、平安時代のおわりまで、東北地方の人たちは蝦夷(えみし)とよばれたのです。そして蝦夷をエゾと呼ぶようになるのは、平安時代末から鎌倉時代の頃のようです。
あさましや千嶋のえぞのつくるなる とくき矢こそひまはもるなれ  藤原顕輔(『夫木和歌抄』)
この頃以降、蝦夷をエゾと呼び、地名としては北海道を、人としてはアイヌ民族を指すようになったと考えられます。

志波城のあった頃の盛岡はどんな様子だったの?(20代 男性)

回答:
志波城の周辺には、たくさんの古代(飛鳥時代~平安時代)の遺跡が見つかっています。それらの調査成果から、当時の人々の暮らしぶりがわかります。
 くわしくは、遺跡の学び館の「盛岡の歴史と遺跡・古代」のページをご覧ください。

坂上田村麻呂はどんなひとだったの?(30代 男性)

回答:
征夷大将軍として活躍し、また清水寺を再興した人として有名です。
坂上田村麻呂は、天平宝字2年(758年)、大陸系渡来人を祖先に持つ武門の家に生まれました。「希代の名将」「毘沙門の化身」ととなえられた彼の風ぼうは「身長5尺8寸(約174センチメートル)、胸の厚さは1尺3寸(約39センチメートル)、赤ら顔で目は鷹の青い瞳のように澄んで鋭く、黄金色の豊かなあごひげをたくわえ、怒り目をめぐらせばたちまち猛獣もおびえ、笑ってまゆをゆるめればたちまち幼子もなつく」と伝えられています。
彼が初めて東北地方へ来たのは、延暦13年(794年)のことでした。延暦16(797)年には征夷大将軍として東北経営の全権が与えられ、胆沢の蝦夷たちと戦いました。延暦21年(802年)、田村麻呂が胆沢城を築くと、蝦夷の族長アテルイやモレたち500余人は、彼の下へ投降します。翌年、田村麻呂は「造志波城使」として盛岡の地へ入り、陸奥国最北端で最大級の城柵志波城を造営しました。田村麻呂が45歳の時でした。
田村麻呂に関する言い伝えは、東北各地にたくさんあります。実際に彼が訪れたことのない青森県などにまで残されています。彼に関する社寺は、全国に90数件もあるといわれており、盛岡市内では志波城跡東側の「大宮神社」などが知られています。

志波城にいた人たちの体格は今と比べてどうだったの?(60代 男性)

回答:
当時の人たちのはっきりとした体格はわかっていません。平均身長は男性160センチメートル前後、女性150センチメートル前後という研究結果もあるようです。
しかし、上に書いた坂上田村麻呂の体格が大きかったと伝えられていることから考えれば、男性の平均身長が160センチメートル前後というのは、妥当な数字と思います。

志波城にいた兵士たちが使った弓の材質は?(60代 男性)

回答:
志波城から弓の出土はないため、はっきりとしたことはわかりません。
しかし、奈良の正倉院に残る27張の弓の材質は、アズサやケヤキ材でつくられており、2.2メートルほどの長さのものが多いそうです。このことから、平安時代初期の志波城でも同じようなものが使われていたと考えられます。
平安時代には木材に竹を張り合わせた合成弓も作られるようになったそうです。位階によって装飾も異なり、握りやその上下の部分の樺や組糸を巻き、その色で区別しました。多くは漆塗りの塗弓で、平安時代中期には、その上位として籐でまいたもの「重籐・滋籐(しげとう)弓」もありました。

当時の硯は「円面硯(えんめんけん)」のような焼き物の硯(すずり)を使っていたのはどうしてなのでしょうか? 硯も中国から渡来したと思われますが、端渓硯のように石を削り硯とした方が簡単な様に思えますが何故なのでしょうか。(60代 男性)

回答:
硯の成立は墨より遅く、中国では、六朝時代(222年~589年)に現在の形の硯が登場します。最初は陶磁器が用いられ、六朝時代の終わりに石製の硯が登場し、唐代に普及したと考えられます。
日本の硯は古墳時代から平安時代にかけては、陶製(とうせい・やきもの)が用いられていました。
硯の形は、始めは「円面硯」で、奈良時代の末から平安時代初頭頃以降に「風字硯」が使われるようになります。志波城からは、その両者が出土しており、ちょうど過渡期にあたるものと考えられます。
また、硯専用に焼成したものではなく、土器などを転用した、いわゆる「転用硯」もまれに出土します。これは、坏や高台付坏の底部の丸い部分を硯のかわりに用いた痕跡のあるものです。
石の硯が現れるのは平安時代の終わり頃から中世~戦国時代頃以降のようです。それ以降、石製の硯が作られるようになり、江戸時代には粘板岩などをもちいた硯、たとえば宮城県の雄勝石を用いた硯などが作られるようになったといいます。
このように、古墳時代から平安時代にかけては、陶製の硯が用いられていました。その理由については、申し訳ありませんが、私にはわかりません。

政庁は、なぜ「コの字」型に建物が並んでいるの?(10代)

回答:
古代(飛鳥・奈良・平安時代)の国のおおきな役所には、必ず政庁がありました。志波城にも政庁があるので、役所だったことがわかります。
当時の日本は、律令体制といって天皇を中心とした「中央集権国家」でした。そのため役所は、天皇を中心とした国家の出先の機関として、その場には天皇はいませんが、その代わりの役人が派遣されており、天皇の代わりに政務や儀式を行うという、重要な役割をもっていました。全国の役所におかれた政庁は、国家の中心である天皇がいて儀式を行う場所、つまり都の大極殿と朝堂院のコピーとして作られました。大極殿が政庁正殿、朝堂院は東西の脇殿、そしてその間に広がる広場が、儀式を行う場所だったのです。

役人はどんな政務をおこなっていたの?(10代)

回答:
城柵には他の地方の役所にはない特別な役割をもっていました。
それは、(1) 東北地方に住む朝廷の勢力範囲に入っていないエミシたちを呼んで(朝貢するエミシ)、「位」や「禄物」を与え酒宴でもてなす「饗給(きょうごう)」、(2) エミシたちの様子をさぐる「斥候(せっこう)」、(3) 反抗するエミシと戦う「征伐(せいばつ)」の3種類です。
このうち、城柵がもっとも重点的におこなっていたと考えられる業務は「饗給」です。役人たちは、この位や禄物の準備やエミシたちが持ってきた土産物(貢物)を鎮守府(胆沢城)や国府(多賀城)に発送したりすること、その他の儀式の準備、備品の管理などを行っていたと考えられます。また、「斥候」により調べた北部のエミシの様子を、鎮守府や国府に伝えたり、軍事行動の準備や計画立案も行っていたと考えられます。

貴重な遺物とはどんなもの?(10代)

回答:
遺物は、当時の歴史を物語るどれも貴重なものばかりです。
しかし、強いてあげれば「残存することが少なく、なかなか見つからないもの」や、「当時の様子を事細かに知ることのできるもの」は、貴重といえるかもしれません。
残存することが少ないものといえば、「腐って無くなる有機質のもの(動植物が原材料のもので、たとえば紙・木製品など)」、「さびて無くなる金属のもの(鉄や銅製品など)」、歴史を詳しく知ることのできる「文字資料(墨で書かれた文字)」などがあると思います。
志波城跡からは、有機質のものはほとんど出土していませんが、たとえば外大溝の橋脚があります(遺跡の学び館に展示中)。金属のものは、鉄製の武具・馬具・農具・工具・文房具などがあります。
文字資料は、墨で文字の書かれた土器(墨書土器)があります。墨書土器からは、その土器を使っていた人の出身地をしめすもの(「上総(かずさ)」(千葉県)、「佐方尓 (さみ)」(新潟県)など)、その土器の所属した施設(「酒所」、「厨(くりや=台所)」」)など、があります。

末期古墳とは?(10代)

回答:
ふつう古墳といえば、弥生時代末から大和時代(3世紀~7世紀頃)にかけて、西日本を中心に築造された「前方後円墳」に代表されるものです。このいわゆる古墳は、東北北部まではつくられることはありませんでした(最北の古墳は、奥州市胆沢区の角塚古墳です)。
一方東北北部(岩手県から北海道南部)には、これらのいわゆる古墳の影響を受け、7世紀から9世紀にかけて、いくつもの小さな小山をつくる「古墳群」が作られます。この古墳群のことを、「末期古墳」、「終末期古墳」などとよびます。土を盛り上げ直径3メートル~10メートル程度の小山を築き、中心に主体部(遺体を埋葬するところ)をつくり、副葬品(武具や馬具、玉類などの装飾品、お供えものをした土器など)と共に埋葬しました。
 これらは、農耕の定着により身分の上下の差が発生し、社会体制(リーダー・族長・村長と庶民への分化)が整ってきた蝦夷社会をあらわしていると考えられます。庶民を集めて古墳を作らせることができた族長・村長的な有力者が現れた社会の様子を物語っています。
志波城跡の近くには、高舘古墳群(盛岡市上飯岡)や太田蝦夷盛古墳群(盛岡市上太田)、飯岡沢田遺跡(盛岡市飯岡新田)、などが知られています。

遺跡の学び館の「盛岡の歴史と遺跡・古代」のページもご覧ください。

志波城の時代、人々はどんな暮らしをしていたの?(10代)

回答:
このころの志波城内およびその周辺の多くの人々は、竪穴住居に住み、農耕を基盤とした生活を送っていました。鉄製の道具を使って田畑を耕したり、野山や河の動植物や魚類をとったりして生活していたものと考えられます。このほか地域の特産物をとって、城柵に届けたりもしていたと思われます。

遺跡の学び館の「盛岡の歴史と遺跡・古代」のページもご覧ください。

志波城周辺の水稲栽培の普及の実態がどのくらいあったのか。(60代男性)

文献史料上には志波城周辺における水稲栽培に関する記録はありません。また、発掘調査成果として、盛岡周辺においては具体的な水田の痕跡も見つかっておりません。
しかし、発掘調査成果などから7世紀以降志波城周辺(太田から本宮、矢巾方面)の平野部には、水田稲作が一般化していたことが想定されます。
7世紀以降、平野部には集落や墳墓が営まれます。集落の営まれる場所は、生活に密接にかかわることであることから、これらの集落の人々は平野部で生業を営んでいた=水田を営んでいた可能性が高いといえます。また、集落の竪穴建物(竪穴住居)にはカマドがあり、胴の長い甕の土器が出土します。土器で作った蒸し器(甑こしき)の出土例も、甕ほどの量はありませんがあります。このことから、コメを炊いて(煮て)食べることが普遍化していたこと、儀式のときは蒸して食べることもあったことが想定されます。
さらに、8世紀の集落から出土する土器の底部に、コメの圧痕が残っていることも見られます(盛岡市津志田・百目木遺跡など)。9世紀半ばの集落で、火事で焼失した竪穴建物の床から、炭化したコメが多量に出土したことも確認されています(盛岡市浅岸・堰根遺跡)。
志波城や徳丹城などの古代城柵は、その後の中近世の社会と同じように、コメ作りを基調とした社会において地域の統治のために作られたものです。
「続日本紀」延暦8年(789年)7月17日条に、「所謂胆沢は、水陸万頃にして、蝦虜生を存する。」とあります。この「水陸万頃」は、川や原野が広大に広がっているという意味ではなく、水田と陸田が広がっているという意味であると指摘されています。このことから胆沢地方の蝦夷の多くが濃厚を営んでいたことがわかります。その場所に胆沢城が造営されたように、志波城が造営された盛岡周辺も、おなじような状況だったと考えられます。
以上から盛岡周辺にも、7世紀以降一般的に水田が作られていたことが状況証拠から推察されます。
 

造営等官庁とはなに?(10代)

回答:
城柵の造営前には、その建築現場事務所兼臨時政務所としての仮の役所がおかれたものと考えられます。徳丹城においては約150メートル四方を囲んだ遺構が見つかっています。また、文献では、「造志波城所」という表記もみられます。「志波城造営事務所」のような意味かもしれません。

エミシはなぜ朝廷に従わなかったの?(10代)

回答:
まず、全てのエミシが朝廷に従わなかったわけではありません。
エミシの中には、斯波村(しわむら)の「胆沢公 阿奴志己(いさわのきみ あぬしこ)」のように朝廷と手を結び、朝廷のもつ最新の技術や文物を手に入れようとしたものもいました。
逆に、胆沢地方の族長「大墓公 阿弖流為(あてるい)や「盤具公 母礼(もれ)」、宮城県北部の伊治郡のエミシ「伊治公砦麻呂(これはりのきみのあざまろ)」、気仙地方のエミシ族長の「宇漢迷公宇屈波宇(うがめのきみうくはう)」などのように、朝廷に対抗し、武力衝突を起こしたものもいました。
当時のエミシ社会は、「部族制」の社会だったと考えられます。エミシたちは国をもたず、地域ごとにリーダーを置くというような社会だったようです。そのグループが、おおよそ村として把握されていたと考えられます。その村ごとに、朝廷と対抗したり、朝廷と手を結んだりしたようです。
多くの反抗したエミシたちも含めて、当時のエミシたちにとって、朝廷のもたらす物資は必要なもので、交流があったのは間違いないですし、反乱を起こした族長たちも、一時期は朝廷の職員・官人として働いていた時期もありました。
しかし、「エミシだ」ということで、都の人々から差別されたり、馬鹿にされたり、蔑視されることがあったようです。また、東北の特産物などを、独占しようとする朝廷の官人もいたでしょうから、それらに腹を立てて、反乱をおこしたものもいたようです。

その他

「史跡」と「遺跡」って、意味がちがうの?(40代 女性)

回答:
「遺跡」とは、過去の人々の活動の痕跡が残っている場所のことです。その中には、建物の跡や溝といった地面に残っている痕跡「遺構」と、土器や石器などのそこに残された物の「遺物」があります。

「史跡」とは、遺跡のなかでも、特にその地域やわが国の歴史をしるために、大切なものを、国が指定したものです。これは「文化財保護法」という法律で、国民共有の財産としてまもらなければならないもの、とされています。
盛岡市内には、「志波城跡」と「盛岡城跡」の2ヵ所が、国によって史跡に指定されています。
また、県や市などが、その地域の歴史を知る上で大切だとして指定した遺跡は、それぞれ「県指定史跡」・「市指定史跡」とよばれます。

みなさまからのご質問にお答えします。

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