伊東圭介(いとうけいすけ)
広報ID1025016 更新日 平成30年12月10日 印刷
伊東圭介(1857年~1895年)
自由艮権運動家・民衆のための代言人(だいげんにん)
伊東圭介は1857年(安政4年)8月5日、盛岡にて伊東元右エ門の長男として生まれた。作人館、小原洋学塾と学び16歳で家督を相続、県の聴訴課(現在の裁判所)に勤める。官尊民卑の風潮が強い当時、伊東は弱い人々の味方となるため、代言人(だいげんにん)(弁護士)の資格を弱冠20歳で取り活動した。貧しい人々の依頼を進んで引き受け、自身の正義感に基づいて処理したため、司法官からも好意を持たれた。
1879年(明治12年)、布施長成(ふせながなり)、昆淳一郎らとともに「協同社」を結成した。当初は代言人(だいげんにん)で構成され、法律研究を目的としていたが、世相の影響を受けて次第に自由民権についての論議が中心となった。そして1881年(明治14年)、鈴木舎定(すずきいえさだ)を中心とした盛岡の自由民権運動団体「求我社」と合併する。政府を真正面から攻撃する伊東は、たびたび禁固刑に処せられたり、演説の禁止が申し渡されたりした。
鈴木舎定(すずきいえさだ)没後は「求我社」の中核として活躍、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員選挙の際には、岩手県第2区(閉伊・九戸地区)から立候補し、当選している。
1894年(明治27年)、既に政治活動もできないほど体が衰弱していた伊東だが、日清戦争のために広島に置かれた大本営で開催された臨時議会に出席した。そのため、この後すぐに召集された第8議会にはとても出席できる状態ではなかった。しかし自分の死期を悟った伊東は最後まで議会に出るべく上京、翌年の2月5日に同士の坂本安孝宅で逝去した。
掲載日:平成17年2月10日
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