一條牧夫(いちじょうまきお)
広報ID1025226 更新日 平成30年12月17日 印刷
一條牧夫(1858年~1938年)
岩手産馬改良の父
一條牧夫(幼名:九平(きゅうへい)、諱:基治(もとはる))は1858年(安政5年)2月29日、岩手郡東中野村(現:盛岡市東中野)にて一條基定(もとさだ)の六男として生まれた。幼少から動物に興味を持ち、のちに畜産の発展に生涯を捧げようと志して牧夫と改名した。1872年(明治5年)、数え年15歳で上京し、のちに駒場農学校で畜産学を学んだ。その後駒場病畜舎や下総種畜場で馬の育成にあたり、1881年(明治14年)に帰郷、外山牧場顧問となり、馬をはじめとする家畜の改良と牧場の整備に尽力した。
岩手は古くから馬の産地だったが、時代に即した馬の改良の必要性を感じた牧夫は岩手種馬厩を設立した。1898年(明治31年)、フランスからアングロノルマン種を、翌年にはイギリスからハクニー種を輸入、南部馬と交配させて改良馬を生み出す。しかし改良事業は平坦なものではなかった。その優秀さはなかなか認められず、“外国語でなければ動かない”などと中傷もされた。優秀さを証明するため、牧夫は改良馬に重量の物資を載せて自ら手綱を執り、一関から青森まで往復して改良馬の持久力と駄載力の優秀さを実証した。1901年(明治34年)、岩手種馬厩が岩手県種畜場と改称された際に場長となり、欧州の畜産状況を視察するなど、1914年(大正3年)に職を辞するまで一貫して産馬改良に努めた。岩手が馬産地として広く認められるようになったのは、牧夫の努力によるものと言っても過言ではない。
のちに花巻温泉の動物園長を務めていた際、ヒグマが檻の外に出た騒ぎがあったが、牧夫は棒を持ってヒグマをにらみながら一歩ずつ足をふみ出し、遂に檻に追い戻したと伝えられる。動物を熟知していたから牧夫ならではのエピソードである。
掲載日:平成21年10月25日
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