佐々木卯太郎(ささきうたろう)

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広報ID1025073  更新日 平成30年12月10日 印刷 

佐々木卯太郎(1848年~1920年)

盛岡金融界の先覚者・第九十銀行頭取

佐々木卯太郎(ささきうたろう)の写真

佐々木卯太郎(旧姓:山屋、本名:兵助)は1848年(嘉永元年)、南岩手郡東中野村(現:盛岡市鉈屋町)の山屋家にて生まれた。佐々木家に養子に入ったのは、初代佐々木卯太郎の長女クラと婚姻した時と思われる。
「永卯(ながう)」とは初代佐々木卯太郎がはじめた足袋(たび)屋(のちには綿や呉服も扱う)の屋号であり、弘化のころ(1844~1847)に開業したと言われている。1891年(明治24年)3月、43歳で2代目「永卯(ながう)」を継いだ佐々木は経営方針を転換、独立採算制や新聞広告などを取り入れた。また1907年(明治40年)に開店した「永卯(ながう)洋物店」では、化粧品や靴、帽子、洋傘、シャツ、かばんなどを扱っており、店は多くの人でにぎわった。
1894年(明治27年)、佐々木は第九十国立銀行(のちに株式会社化)の頭取となった。当時、この銀行の信用状態は最悪であり、渋沢栄一をして“遺憾ながらその当時の九十銀行にては御信用して御引継ぎすること出来ざる訳にて”と述べさせるほどであった。佐々木は頭取として堅実な銀行経営を行い、1912年(大正元年)には53.6%の積立金を持つほどに経営を回復させた。
1920年(大正9年)10月31日、“盛岡の風雲児”と称された岩手銀行頭取小野慶蔵が、同年の11月24日には、佐々木が株式会社第九十銀行頭取のまま永眠した。この2行に盛岡銀行を加えた3行が、後に鼎立(ていりつ)の状態に陥ることとなり、1931年(昭和6年)の金融パニックへとつながっていく。

掲載日:平成17年11月25日

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