瀬川安五郎(せがわやすごろう)

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広報ID1025075  更新日 平成30年12月10日 印刷 

瀬川安五郎(1835年~1911年)

鉱業開発者

瀬川安五郎(せがわやすごろう)の写真

瀬川安五郎は1835年(天保6年)7月27日、盛岡肴町にて両替屋を営む4代目油屋惣助、ミツの子として生まれた。1859年(安政6年)に5代目の叔父から惣助を継ぎ、奉公先から出た慰労金を元手に行商を行った。幕末の混乱期には生糸を大量に買い集めて莫大な利益を上げ、後には豪商小野組の等外第一等元方(常務取締役に相当)を務めて、奥羽地方の為替や生糸の買い入れなどを統括した。
1876年(明治9年)2月、秋田県仙北郡荒川村(現:秋田県大仙市)の荒川鉱山が民間に払い下げられると、同年10月に購入し鉱山経営に乗り出す。新しい鉱脈を発見するなど徐々に経営は安定し、1893年(明治26年)には115万斤(690トン)、全国5位となる産出量を稼ぎ出すまでとなった。
しかし瀬川は、1886年(明治29年)に荒川鉱山などを三菱会社に55万円で売却した。鉱山の産出量は最盛期に達していたが、“余等小資本家ガ斯クノ如キ将来一大多望ナル鉱山ヲ稼業スルハ実ニ国家ノ幸福ヲ妨グルモノトス故ニ”と考えてのことだった。後には米穀・生糸の販売を始めたがこちらの事業は振るわず、1911年(明治44年)12月24日に76歳で没した。
瀬川は日本画家の平福穂庵・百穂親子への援助や、現在盛岡市の保護庭園となっている「南昌荘」を建てるなど、文化的な側面で活躍したことでも知られている。

掲載日:平成17年12月25日

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