志波城の歴史 志波城跡の歴史
広報ID1009507 更新日 平成28年8月21日 印刷
志波城跡の場所は、昭和50年代までは「太田方八丁遺跡」とよばれていました。現在も志波城内に残る「方八丁」という小字名は、江戸時代の絵図面にもみることができます。
しかし絵図面には、平安時代に坂上田村麻呂によって造営された志波城跡としてではなく「八幡殿陣場」、つまり前九年合戦時の源氏の陣の跡であると書かれており、地元ではそのように伝承されてきました。
また、地元の古老たちの間では「方八丁には金の鳩が埋まっている(注)」という伝承が残っていたり、ちょうど外郭南門付近の築地塀の痕跡が土手状に残っていた畑は「ドテッパタケ」と呼ばれていました。
志波城跡の周辺には、坂上田村麻呂に関する伝承も数多く残されています。たとえば志波城跡の東にある大宮神社は、田村麻呂と共に下向した伊勢神宮の御分霊と神主がその祖と伝えられると共に、田村麻呂死後に彼を神として祀ったといわれています。
昭和30年代、板橋源氏によって古代城柵の可能性が指摘され、その後昭和51年・昭和52年の東北縦貫自動車道建設にともなう発掘調査以降、この太田方八丁遺跡がそれまで所在地が不明だった古代城柵志波城跡であることが判明し、昭和59年に国の史跡指定を受けました。
現在も盛岡市教育委員会により調査と保存整備が進められ、今では1200年前の威容を復元した志波城古代公園として多くの市民や観光客に親しまれているのです。
(注)「金の鳩」とは、おそらく源氏の守り神としての鳩の存在が、伝説として残っていたことによるものと考えられます。今のところ、発掘調査では金の鳩は出土していません。
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