盛岡城跡公園(岩手公園)
広報ID1010491 更新日 令和6年5月29日 印刷
- 所在地:盛岡市内丸1番37号
- 計画決定年月日:昭和31(1956)年5月14日
- 計画決定面積:9.9ヘクタール
- 開設年月日:昭和31(1956)年10月15日
- 開設面積:9.2ヘクタール
- 指定管理者:特定非営利活動法人 緑の相談室
- 盛岡城跡公園ガイドマップ (PDF 3.1MB)
- 盛岡城跡石垣危険箇所について
- 指定管理者(NPO法人 緑の相談室ホームページ)(外部リンク)
- 盛岡城跡公園
- 盛岡城跡公園地下駐車場(岩手公園地下駐車場)
あらまし
盛岡城は、三戸から不来方(こずかた)の地に居城の移転を決定した南部信直(なんぶのぶなお:盛岡藩初代藩主)が、慶長2(1597)年に嫡子利直(としなお:2代藩主)を総奉行(そうぶぎょう)として築城を始めたと伝えられています。
城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵上に本丸・二ノ丸・三ノ丸・淡路丸(あわじまる)など曲輪(くるわ)を配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(うちくるわ)=御城内(ごじょうない)としています。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀と土塁で囲み、南部氏一族や藩の重臣たちの屋敷を配置して外曲輪(そとくるわ)としました。また、外曲輪の北側と東側の中津川対岸の城下も堀と土塁で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(とおくるわ)=総構(そうがまえ)が配置されています。
築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後、おおよその完成をみた寛永10(1633)年に南部重直(しげなお:3代藩主)が入城して以降、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。
盛岡城は、明治の廃藩置県の後明治5(1872)年に陸軍省所管となり、明治7(1874)年には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しました。
その後、明治39(1906)年に近代公園の先駆者である長岡安平(ながおかやすへい)の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
平成18(2006)年には開園100周年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。
また、「日本の名城100選」や「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。
盛岡城跡公園のあゆみ
盛岡城跡公園関連年表
年号 |
西暦 |
できごと |
---|---|---|
慶長2年 |
1597 |
南部信直、嫡子利直を総奉行とし、盛岡城築城の鋤(鍬)初めを行う。 |
寛永10年 |
1633 |
南部重直盛岡城へ入城。(これより歴代藩主居城となる。) |
慶応4年 |
1868 |
戊辰戦争で盛岡藩降伏。 |
明治元年 |
1868 |
盛岡城は新政府の直轄地となる。(10月に新政府軍入城)。 |
明治3年 |
1870 |
盛岡藩を盛岡県とし、県庁を盛岡城二ノ丸に設置する。 |
明治4年 |
1871 |
廃藩置県、内丸広小路に盛岡県庁がおかれる。(現岩手県庁) |
明治5年 |
1872 |
城域のすべてが陸軍省(兵部省明治5年2月廃止)東北鎮台の所管になる。 |
明治7年 |
1874 |
岩手県により一般入札がおこなわれ、場内建物や樹木が払い下げられ、解体撤去される。 |
明治23年 |
1890 |
南部氏が国から縁故払い下げを受ける。 |
明治39年4月14日 |
1906 |
荒廃していた盛岡城跡を、岩手県(北条元利知事)が公園として整備に着手。 |
明治39年9月15日 |
1906 |
岩手公園開園。 |
昭和9年12月 1日 |
1934 |
岩手公園の管理が岩手県から盛岡市に移管。敷地の大部分を南部氏から購入する。 |
昭和12年4月12日 |
1937 |
盛岡城跡が国指定史跡となる。 |
昭和31年5月14日 |
1956 |
岩手公園として都市計画決定。 |
昭和31年10月15日 |
1956 |
一般公園として開設。 |
昭和55年 |
1980 |
総合公園として開設。 |
昭和59年 |
1984 |
盛岡城跡保存整備事業として石垣解体修理と発掘調査に着手。 |
平成元年 |
1989 |
日本の都市公園100選(公園緑地協会)。 |
平成18年4月6日 |
2006 |
日本100名城(日本城郭協会)。 |
平成18年9月15日 |
2006 |
愛称を『盛岡城跡公園』に決定。 |
平成18年10月27日 |
2006 |
日本の歴史公園100選(都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会)。 |
園内スポット
盛岡城の石垣
盛岡城の石垣は、全て城内とその周辺(内丸など)で産出した花崗岩によって築かれています。石垣は構築された時期などによって異なった積み方が見られ、自然石をそのまま積み上げる「野面積(のづらづみ)」、大小様々な割石をパズルのように積み上げる「乱積(らんづみ)」、方形に整えた石をレンガを積むように横目地をそろえて積み上げる「布積(ぬのづみ)」などが見られます。
石垣は江戸時代以来、地震のほか降雨や樹木の根などの影響を受け、次第に傷みが進み崩れる心配がある箇所がでてきました。このため、石垣の詳しい調査を行い、石垣総面積約1万6千平方メートルのうち、傷んでいる約5000平方メートルを解体修復する作業を昭和59(1984)年から行っており、現在も継続的に事業が進められています。
ウメ林ほか
ブンゴウメ、シダレウメ、白梅など、約100本が4月上旬まで咲きます。
鶴ケ池・亀ケ池
盛岡城の内堀跡で中津川から水を引いています。桜山の鳥居を挟んで、西側が「亀ケ池」、東側が「鶴ケ池」と名付けられています。
5月には鶴ケ池の藤棚、7月になると池を取り囲むアジサイが満開になります。
多目的広場
消防団出初式や公園活性化交流広場など、さまざまなイベントを行っている広場です。
藩政時代は「御台所」と呼ばれ、盛岡藩の財務を司る屋敷が存在しました。
ビクトリアロード
ユリノキの大木の並木と美しい中津川のせせらぎに包まれた小道。新渡戸稲造が縁となったカナダのビクトリア市と盛岡市の姉妹都市10周年を記念して名付けられました。
ホタルの里
鶴ヶ池から中津川に注ぎ込むせせらぎです。モミジ林に包まれたせせらぎは落ち着いた空間を形成しています。
時鐘(日影門外時鐘)
この鐘はもともと日影門付近(現在の中央郵便局付近)の土塁上に存在したものですが、明治期に内丸の岩手郡役所敷地内に移設、その後さらに現在地に移設されたもので、昭和30年頃まで盛岡の人々に時刻を知らせていました。
この時鐘は、4代藩主南部重信(しげのぶ)の時代に、その子行信(ゆきのぶ)の発願によって、延宝7(1679)年に京都から釜師として迎えられた小泉五郎七清則の手によって鋳造されたものです。
昭和30(1955)年ごろまで約280年に渡って盛岡の人々に時刻を知らせ、生活の調べとして親しまれてきました。
昭和42(1967)年6月24日に市の指定文化財になり、その後、平成27(2015)年11月6日に県の指定有形文化財となっています。
桜林
ソメイヨシノ、サトザクラ、エドヒガン、ヤエベニザクラ、ヤマザクラなど約250本の桜が4月上旬から4月下旬まで咲きます。
芝生広場
中津川よりに位置する芝生広場は、ヤマボウシやハマナスなどのさまざまな花の咲く樹に包まれた開放的な空間で、家族で憩える空間です。
藩政時代は盛岡藩の隅屋敷(藩直営の屋敷)や重臣屋敷が立ち並んでいた場所です。
宮沢賢治詩碑や、姉妹都市であるヴィクトリア市から贈られたトーテムポールがあります。
花壇
もりおか歴史文化館前の花壇。百種類を超える草花が一年を通して咲き誇ります。
毎日の維持管理がボランティアクラブの手により行われています。
彦御蔵(ひこおくら)
城内に残る唯一の藩政時代の建築物で、諸道具類を納めていたと考えられています。創健は寛延2(1749)年ですが、江戸時代後期の天保7(1836)年に火事により焼失し、翌年に再建されました。
建物は木造総二階建ての土蔵造りで、内部を上下四つに仕切っています。
外壁は漆喰塗り仕上げ、屋根は野地板の上に土を塗り、その上に木造屋根組を行う二重構造で瓦葺です。出入口は両開きの漆喰戸で、その内側に片引板戸が2枚ついており、外側の板戸外面は漆喰塗り仕上げとなっています。
この蔵は本来、現在地よりも100メートルほど西側に存在していましたが、道路の拡幅工事にともない、かつて「米内蔵」があった現在の場所に移設されています。
建築面積は180.25平方メートル(54.5坪)
盛岡市指定有形文化財:平成23年3月24日指定
四阿(あずまや)
明治39(1906)年に岩手公園(盛岡城跡公園)が開園したとき、園内には8棟の四阿が建てられ、それぞれに景観や自然、情緒にちなんだ愛称が付けられました。このうち、当時の場所に現存するのは下記の3棟です。
- 夕陽亭(本丸西側)
- 望岳亭(二ノ丸西側)
- 拾翠亭(三ノ丸南側)
次の4棟は、石垣修復工事や老朽化などにより取り払われています。
- 凌虚亭(本丸天守台)
- 観月亭(淡路丸大櫓跡)
- 聚芳亭(バラ園内)
- 双龍亭(多目的広場) 現在は音楽堂です。
- 枕流亭(淡路丸東下梅林)
その後、二ノ丸南東側と吹上門三社跡付近に各1基新設され、現在園内には計5棟の四阿があります。
文学碑
石川啄木歌碑
「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」
昭和30(1955)年10月建立。
歌碑がある「二ノ丸」は、啄木が学んだ中学校(現在の岩手銀行本店)のすぐ近くにあたります。
啄木は、ときおり教室から逃げ出し、ここで文学の夢を結びました。
歌碑は、盛岡藩士邸の庭石だったといわれる自然石に、方形の銅板の碑がはめ込まれたものです。
(画面上ではアクセシビリティに配慮し、簡略化した「啄木」の文字を使用しています。ご了承ください。)
新渡戸稲造文学碑
「願わくはわれ 太平洋の橋とならん」
新渡戸稲造博士生誕100年を記念して、昭和37(1962)年9月に二ノ丸に建立。
新渡戸は10歳まで鷹匠小路に居住し、岩手公園(盛岡城跡公園)で遊んだことにちなんで、この公園に設置しています。
宮野小提灯句碑
「月待つや 独り 古城の松のもと」
句集「矮鶏」中「蓑虫」編の一句として、昭和16(1941)年の太平洋戦争が起こる直前の作品。門下生達により、昭和26(1951)年11月に吹上門脇に建立されました。
宮沢賢治詩碑
「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は声もなし
なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり
老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はここにして
中学生の一組に
花のことばを教えしか」
弧火燈(あーくらいと)にめくるめき
羽蟲の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるる
賢治の死期迫る1カ月前の昭和8(1933)年8月22日の日付のある文語詩百編の中の一詩で、「賢治の詩碑を岩手公園に建てる会」により、昭和45(1970)年9月に建立されました。
彫刻・モニュメント
南部(利祥)中尉騎馬像台座
南部家42代利祥(としなが)が24歳で日露戦争において戦死し、その功によって、功五級金勲章を受けたことを顕彰する像で、明治41(1908)年9月に建立されましたが、銅像本体と玉垣の鎖は昭和19(1944)年に軍需資材として供出され、現在は台座のみが残されています。
教育の像
笛を吹く生徒と、それを暖かく見守る女性教師の像は、学制発布百年を記念して岩手県小・中学校校長会が合同で、昭和49(1974)年3月に建立したもの。岩手の教育を象徴し、教育の重要性を広く訴える像です。小野寺玉峰作。
トーテムポール
カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州ビクトリアと盛岡市の姉妹都市10周年を記念して、平成7(1995)年5月にビクトリア市より寄贈されたものです。
一番上のイーグル(鷲)は力・地位・富を象徴する地位の地位の高い紋章。
鷲のつかんでいるのは鮭で環太平洋地域の重要な食料源であるこの魚をたたえています。
手を前に差し出す真ん中の像は酋長を表現。
太平洋の架け橋となって世界の平和を願った新渡戸博士の志を表現するために選ばれた像です。
一番下にある像は熊の紋章で、偉大な力を持つ熊は高い地位の象徴です。
花時計
東北銀行20周年記念事業の一貫として昭和45(1970)年11月に整備されました。花時計は、春にはパンジー、夏にはインパチェンスやベコニア、秋には菊、冬には葉牡丹と年4・5回植え替えられ、四季を通じて市民の目を楽しませています。
瀬川正三郎像
大正6(1917)年、京都武専を出たばかりの瀬川氏は、柔道師として盛岡中学に迎えられ、その若さと情熱、豪快な気質は生徒たちに大きな影響を与えました。盛岡中学をやめた後も、県のスポーツ振興につくしました。昭和50(1975)年11月建立。舟越保武作。
世界アルペンメモリアルモニュメント
平成5(1993)年に雫石で行われた世界アルペン選手権大会盛岡雫石大会開催を記念して、同大会の表彰会場となった岩手公園(盛岡城跡公園)にモニュメントを設けました。
このモニュメントにはメダリスト達の手形がはめ込まれています。
教育記念像
昭和17(1942)年に下閉伊郡荒川国民学校で水泳中、おぼれかかった教え子を救助しようとして殉職した小国テル子訓導の鎮魂の碑文がはめ込まれています。昭和30(1955)年12月建立。堀江赳作。
日本の都市公園100選碑
平成元(1989)年に「日本の都市公園100選」(社団法人日本公園緑地協会)に選定されたことの記念碑です。
イベントガイド
盛岡さくらまつり
例年4月に開催。約250本あまりの桜が咲きます。
いしがきミュージックフェスティバル
盛岡城跡公園をはじめ、盛岡市中心市街地で開催される音楽イベントです。
施設案内
トイレ
4カ所(多目的トイレ 1カ所)
盛岡城跡公園地下駐車場(岩手公園地下駐車場)
所在:盛岡市内丸1-55
営業時間(入庫出庫可能時間):7時から22時まで(年末年始を除く)
駐車料金
普通料金
- 8時から18時まで 駐車時間30分までごとに150円
- 18時から22時まで 駐車時間1時間までごとに150円
- 22時から翌日8時まで 駐車時間1時間までごとに80円
(注)駐車料金の上限額について
- 8時から18時まで(18時にまたがるときは、そのまたがる30分以内の時間を含む。)の駐車に係る上限額は1100円です。
- 18時から翌日の8時まで(翌日8時にまたがるときは、そのまたがる1時間以内の時間を含む。)の駐車に係る上限額は800円です。
定期駐車券
- 全日 0時から24時まで 1カ月 2万1000円
- 昼間 8時から19時まで 1カ月 1万5000円
- 夜間 18時から翌日8時まで 1カ月 9000円
回数駐車券
- 150円11回券…1500円
自然環境
- 代表的な樹種はケヤキ、トチノキ
- 盛岡固有の樹種、地方色の濃いものなど珍しい樹種としては、シダレカツラ、ケンポナシ、ユズリハ、キハダ、クマノミズキなどがある。
周辺スポット
中津川
盛岡を象徴する川である中津川は、市内中央部を南西に流れる北上川の支流で、延長約22.8キロメートル。
夏はアユが釣れ、秋にはサケが遡上する川として親しまれています。
上ノ橋
慶長14(1609)年、盛岡藩2代藩主利直の時に、盛岡城下を建設した際に、発展の第一歩として、市の中心を流れる中津川に架けられた橋です。
京都三条大橋をほうふつとさせる青銅製の擬宝珠は、城下町盛岡のシンボルで、慶長14年(1609年)の銘があるものが5個、慶長16年(1611年)の銘があるものが8個あり、これだけ数多く残っているのは珍しく、国の重要美術品に認定されていました。
宮沢賢治歌碑(下ノ橋のたもと)
当時、賢治は川べり近くに住んでいました。
「ちゃんがちゃんが馬コ」の詩は、朝にチャグチャグ馬コが通り過ぎるときの様子を描いています。
新渡戸緑地
新渡戸稲造生誕の地を緑地として整備しています。
新渡戸稲造は国際連盟事務次長までつとめ、各国の政治家、思想家、学者らと交流し「われ太平洋の架け橋とならん」という理念に基づいて、諸外国の日本理解のために尽力しました。
御田屋(おたや)清水
盛岡ではかつて、町のあちこちで清水が湧いていました。
都市化と共に消えていく湧き水ですが、ここは街の中心部でも湧き続けており、自由に飲むことができます。
御田屋清水はかつての藩主の居宅であった「御新丸」の南側に位置し、昆沙門清水とともに城内で用いられる水を供給していました。
盛岡石割ザクラ
現在の盛岡地方裁判所は、盛岡藩の家老北家の屋敷跡に建てられています。その庭のサクラは、周囲23メートルの巨大な花崗岩を二つに割って成長したエドヒガン。
樹齢は300年とも400年ともいわれています。
根回り4.3メートル、樹高10メートルで、4月下旬市内で真っ先に花を付けます。
国指定天然記念物。
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