保存建造物 材木町裏石組
広報ID1009385 更新日 平成28年8月21日 印刷
北上川夕顔瀬橋下流左岸の石垣─通称材木町裏の石組は、全長361.2メートル(夕顔瀬橋から、戎屋履物店裏まで、このうちには、夕顔瀬橋の橋台に隣接した護岸工事を含む)地盤からの高さ3.3メートルから5.5メートルである。石垣の天端の高さは一定しておらず、下流端を基準高として、これより低いところは、-960ミリメートル高いところは+2920ミリメートルで、この間にいろいろの高低差がある。また、平面的にも、ところにより30センチメートル程度の出っ張りや引っ込みがあり、これらの石垣が統一して造られたのではなく、土地所有者がそれぞれ施工したらしいことを物語っている。さらに水面を利用するための石段が14個所設けられている。
ここに施工されている石垣は、材料及び工法により3種に分けられる。
- ほぼ30から40センチメートル角、控45センチメートル程度の花崗岩の間知石を用いた谷積(A種とする)(空積みの部分と目地をモルタルでつめた部分とがある)
- 70から80センチメートル角、控120センチメートル程度の花崗岩の間知石、および80から170センチメートルの不規則な形状の花崗岩(一部石英粗面岩、安山岩もある)乱石を用いた乱積(B種とする)
- 40から60センチメートルの玉石を用いた布積から乱積(C種とする)
石垣の全長にわたって、大部分A種であり、B種は約22メートル、C種は10メートル+12メートル=22メートル程度である。A種およびB種は崩壊している個所はないが、C種(玉石空積み)の個所は、大部分崩壊していて、残っている部分は少ない。C種は、残っている部分も不安定な感じであり、護岸の石垣として弱点となっている。
A種は大きさ、形状の整った間知石から成っており、積み方は一応谷積みであるが、石の形状が長方形でなく、正方形に近いため完全な谷積みとなっていない。また、目地をモルタルでつめたものが多いが、これは当初はなく、後からつめられたものと思われる。
B種は一般に80センチメートル程度の大きな花崗岩が用いられ、とくに下部には、80から170センチメートル程度の大きなものが用いられている。積み方は不規則な形状のものを用いた乱積であるが、合端(石と石との接合面)は扇形とか突起状のものがあり、それらがていねいに石を削って、ぴったり合わせてある。相当に熟練した石工が十分日数をかけて施工したものと思われる。これらの石垣を鑑定した細野与次郎氏(1910年8月21日生れ)によれば、石の加工程度、石を割るときの矢穴の形状や間隔から判断して、B種の石垣は、江戸時代末期のものかと言う。
石垣の下部の基礎はどれだけ根入りがあるか不明であるが、水中に礫岩の岩盤が見られるので、石垣の下部も同様のもので、強固な岩盤上に乗っているものと思われる。また、基礎の保護および通路として、石垣の下部に巾1メートルほどの小段を設けて、玉石で根巻きしている。(一戸三平氏の所見)
石垣の勾配は、一般に1:0.3から0.35程度である。
この石垣の特徴として、前述のように14個所の階段が設けられている。形状は、石垣の上から下まで一直線のものと途中に踊場を設け、その後、斜に降りて行くものとの2形式がある。階段の巾は0.7から1.8メートルの間で、ところにより広狭がある。このように水面に降りて行く階段を設けていることが、城の石垣などと異なる特徴となっている。これらの階段の一つである宮重ビル(当時宮重下商店)の裏の階段は、最初玉石積であったが、大正末期から昭和初期にかけて、細野与次郎氏が施工して現在の花崗岩の石階にかえたという。これらの石階は、洗いもの等をするために造られたもので、1935年から1940年頃(松尾鉱山の鉱毒水の流入時点)まで使われていたといわれ、住民の生活の必要性に深く結びついたものであった。
概要
名称
材木町裏石組
所有者
国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所
所在地
材木町33番地の1地先から材木町89番地の4地先まで
構造形式
主として間知石谷積
建築年代
主として明治年間
面積延長
延長361.2平方メートル
用途
護岸
建築依頼主
各土地所有者と思われる
外観材質
花崗岩、安山岩、石灰粗面岩
設計者
不詳
施工者
不詳
事業費
不詳
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