盛岡の歴史と遺跡5(古代1)

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広報ID1009460  更新日 平成28年8月21日 印刷 

遺跡の発掘調査からわかる盛岡の歴史を紹介(古代編1)

古代(飛鳥・奈良・平安時代、約1400年~800年前)1

マスコットキャラクター「みっけ」のイラスト

7世紀になると、畿内に朝廷の都がつくられ、中国を手本に律令(りつりょう)制度により地方を統治しようとしました。東北北部の人々は稲作を中心とした生活を営みながらも、独自の習俗により「蝦夷(エミシ)」と呼ばれ、その有力者は「末期古墳(まっきこふん)」と呼ばれる墳墓に埋葬されました。8世紀になり奈良の平城京(へいじょうきょう)が都となると、陸奥国(むつのくに)・出羽国(でわのくに)に、エミシ達を治めるための特別な役所として「城柵(じょうさく)」が各地に築かれ、平安時代となる9世紀はじめには盛岡以南までが朝廷の直接統治下となります。その中で集落は急増していき、10世紀以降になるとエミシ系の在地有力者が地域を実質的に治めるようになります。その中で、安倍氏が「奥六郡(おくろくぐん)」と呼ばれた北上盆地一体を一族で支配するようになり、独自の柵が築かれました。

エミシのムラ

盛岡では、7世紀~8世紀(飛鳥時代~奈良時代)にかけて稲作農耕に適した河川沿いの平野部に、各地区の中心となるムラが営まれるようになります。本宮地区の本宮熊堂B(もとみやくまどうビー)遺跡・野古A(のっこエー)遺跡・飯岡沢田(いいおかさわだ)遺跡・台太郎(だいたろう)遺跡、三本柳地区の百目木(どめき)遺跡・西鹿渡(にしかど)遺跡、都南永井地区の高櫓A(たかやぐらエー)遺跡でまとまった調査が行われていて、その様子を知ることができます。
住いとなる竪穴住居は平面形が方形で、その北辺または西辺に煮炊きのためのカマドと煙出しがつくられます。一辺7メートル~8メートルの大型住居と一辺4メートル~5メートルの小型住居複数がセットとなっていくつかのグループをつくることが多く、エミシ達の家父長を頂点とする血縁集団の様相を示すものと考えられます。
生活用具としては素焼きの土師器(はじき)が使われ、煮炊きする甕(かめ)と、盛りつけ皿の坏(つき)がセットとなります。坏は厚手で底が丸く、内面が黒色処理されているのが特徴です。

大型竪穴住居跡の写真
大型竪穴住居跡(高櫓A遺跡)
住居内の様子の想像図
住居内の様子(想像図)
奈良時代の土器の写真
奈良時代の土器(台太郎遺跡)

エミシの古墳

衝角付冑の写真
衝角付冑(上田蝦夷森古墳群)

エミシ集団の首長は、溝をめぐらせた小型の円形古墳に葬られ、「末期古墳(まっきこふん)」と呼ばれています。上田地区の上田蝦夷森古墳群(うえだえぞもりこふんぐん)1号墳は7世紀の古墳で、遺体を葬る主体部(しゅたいぶ)は木棺(もっかん)を納めていたと考えられ、鉄製の衝角付冑(しょうかくつきかぶと)など〔県指定有形文化財〕が副葬されていました。太田地区の太田蝦夷森古墳群(おおたえぞもりこふんぐん)2号墳は8世紀の古墳で、主体部は川原石を積んでつくられ、和同開珎(わどうかいちん)、帯金具(おびかなぐ)、勾玉(まがたま)、ガラス小玉、刀など多くの副葬品が出土しました。
どちらの古墳も、地域をまとめる有力エミシ首長の墓と考えられ、地元でつくることのできない貴重な副葬品は、エミシ集団と朝廷側との接触をうかがうことができます。このほか、市内では都南飯岡地区の高舘古墳(たかだてこふん)〔市指定史跡〕、玉山区永井地区の永井古墳群(ながいこふんぐん)でも末期古墳が確認されています。
文献によると、8世紀後半に現在の盛岡周辺を指す「志波村」(しわむら)の地名がみられ、西の出羽国(でわのくに)の朝廷軍と戦闘となり、朝廷軍が敗れるとの記述があることから、太田・本宮地区を中心とした雫石川流域に強大なエミシ勢力が存在していたと考えられます。
 

古墳副葬品出土状況の写真
古墳副葬品出土状況(太田蝦夷森古墳群)
古墳主体部の写真
古墳主体部(永井古墳群)

城柵と律令支配

復元された建物の写真
復元建物(史跡志波城跡)

774年に現在の宮城県北地域からはじまるエミシ勢力と朝廷軍との争いは、781年に桓武天皇(かんむてんのう)が即位すると、現在の岩手県南地域に及び、胆沢(いさわ)地方を中心に大きな戦いがありました。797年に征夷大将軍となった坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は朝廷軍を勝利に導き、802年に胆沢城(いさわじょう)〔奥州市水沢〕を造営、その翌803年に志波城(しわじょう)〔太田・本宮地区〕を造営しました。文献には、「志波村」のエミシ首長が792年に朝廷への帰属を願い出るとの記事があり、志波エミシが親朝廷側としてその勢力を温存したまま城柵(じょうさく)の設置を受け入れたと考えられます。
志波城跡〔国指定史跡〕は840メートル四方を築地塀(ついじベい)で囲み、二層の外郭南門(がいかくみなみもん)と林立する櫓(やぐら)を持つ、古代陸奥国府(むつこくふ)多賀城(たがじょう)に匹敵する最大規模の城柵でした。城内には150メートル四方を築地塀で囲む広大な政庁(せいちょう)が置かれ、その周囲には多数の役人と兵士が勤めていました。出土する土器はロクロを使い窯で焼かれた須恵器(すえき)が多く、鉄製の武具や工具も数多く出土します。城には朝廷から貴族が長官や補佐官として派遣され、在地有力者の一族も位を与えられて下級役人として勤めていたと考えられます。志波城の南方に位置する飯岡林崎2(いいおかはやしざき2)遺跡からは須恵器の硯(すずり)が発見されていて、読み書きのできる現地採用のエミシ系役人が、城柵周囲のムラに住んでいたことがうかがえます。
文献には811年に「斯波郡」(しわぐん)を置くとの記事がみられるものの、翌812年頃には水害を理由に志波城は廃止され、南の徳丹城(とくたんじょう)〔矢巾町〕に建物ともども移転してしまい、その存続はわずか10年と短いものでした。
 

政庁出土の須恵器坏の写真
政庁出土須恵器(史跡志波城跡)
鉄鏃の写真
鉄鏃(史跡志波城跡)

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