第4回:楢山佐渡(ならやまさど)

Xでポスト
フェイスブックでシェア

広報ID1009531  更新日 平成30年12月10日 印刷 

楢山佐渡(1831年~1869年)

悲運の盛岡藩家老

楢山佐渡(ならやまさど)の写真

楢山佐渡(ならやまさど)(本名:隆至(たかし)、隆吉)は楢山帯刀(たてわき)(隆冀(たかくに))の長男として生まれた。楢山家は南部一門として代々家老を勤めた家柄で、佐渡も弱冠23歳にして家老職に就き、後には主席家老として藩政の改革に奔走した。佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆をおさめるために働き、そんな佐渡を藩主利剛(としひさ)も厚く信頼した。
1868年(慶応4年)2月、旧幕府側と薩長側に揺れる藩の行く末を決めるべく、佐渡は主席家老として京都へ赴く。しかしそこで佐渡が見たものは、権勢を得て横暴な態度をとる薩長の武士の姿だった。そのため佐渡は、薩長の標的とされた会津藩と庄内藩への穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)への参加を決意する。
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に従った盛岡藩は、同盟を脱退した秋田藩を攻めるも官軍の援助を得た秋田勢に敗れ、同年9月に降伏謝罪の手続をする。主席家老として佐渡はその戦争の責任を一身に受ける形となり、翌年の1869年(明治2年)6月23日、故郷盛岡にて切腹の形をもって処刑された。
後に原敬は「戊辰戦争殉難者五十年祭」中で、“戊辰戦争は即ちただ政見の異同のみ”と祭文を読み上げ、当時の盛岡藩及び楢山佐渡(ならやまさど)の立場を語った。

掲載日:平成16年11月30日

よりよいウェブサイトにするために、このページにどのような問題点があったかをお聞かせください。

このページに問題点はありましたか?




このページに関するお問い合わせ

教育委員会 歴史文化課
〒020-8532 盛岡市津志田14-37-2 盛岡市役所都南分庁舎3階
電話番号:019-639-9067 ファクス番号:019-639-9047
教育委員会 歴史文化課へのお問い合わせは専用フォームをご利用ください。