第31回:鈴木舎定(すずきいえさだ)

Xでポスト
フェイスブックでシェア

広報ID1009558  更新日 令和5年4月3日 印刷 

鈴木舎定(1856年~1884年)

自由民権運動家・求我社の指導者的存在

鈴木舎定(すずきいえさだ)の写真

鈴木舎定は1856年(安政3年)2月、盛岡新築地(現:盛岡市大通三丁目)にて盛岡藩士鈴木舎従の長男として生まれた。幼名は弘太。1871年(明治4年)、上京して宣教師カロザースから洗礼を受け、旧幕臣中村政直の私塾同人社に通い、政治や法律など新しい文物について学んだ。
1878年(明治11年)6月、舎定は帰盛する。西南戦争が前年に終結したため、不平士族らの政府への不満の捌け口は自由民権運動へと向かっていた。戊辰の役で賊軍となった盛岡藩士たちも自由民権運動へ多数参加し、舎定は岩手県における中心的な存在「求我社」で指導的役割を担(にな)った。また「求我社」の機関紙「盛岡新誌」の主筆として、人々へ自由民権運動への参加を呼びかけている。1881年(明治14年)には『国会手引草』を著し、国会開設のための啓蒙(けいもう)活動を行った。
しかし政府による自由民権運動に対する弾圧は徐々に強まっていく。舎定はその状況の打破を企てるが、1884年(明治17年)1月1日、盲腸炎のため周囲に惜しまれつつ急逝した。盛岡市先人記念館で顕彰している作家鈴木彦次郎は舎定の甥にあたる。

掲載日:平成18年1月10日

よりよいウェブサイトにするために、このページにどのような問題点があったかをお聞かせください。

このページに問題点はありましたか?




このページに関するお問い合わせ

教育委員会 歴史文化課
〒020-8532 盛岡市津志田14-37-2 盛岡市役所都南分庁舎3階
電話番号:019-639-9067 ファクス番号:019-639-9047
教育委員会 歴史文化課へのお問い合わせは専用フォームをご利用ください。