第6回:目時隆之進(めときたかのしん)

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広報ID1009533  更新日 平成30年12月10日 印刷 

目時隆之進(1823年~1869年)

勤皇の志士

目時隆之進(本名:政朋(まさとも)、幼名:健次郎)は1823年(文政6年)6月16日、米内村三ツ割(現:盛岡市三ツ割)にて目時彦一郎の子として生まれる。幼くして父や兄を失った目時は弱冠2歳で家督を継いだ。
1868年(慶応4年)、楢山佐渡、中嶋源蔵らとともに京都にあった目時は、薩長が中心となった官軍に味方することを支持した。しかし旧幕府側に味方することを決めた楢山を説得することはできず、勤皇の志のままに長州藩邸へと脱走する。目時は東北遊撃軍に参加したが、おりを見ては総督久我道久(こがみちつね)に藩主南部利剛の朝廷への忠誠心の強さをうったえていた。
同年の9月、秋田の戦役に破れた盛岡藩は、薩長側からの働きかけにより、早期降伏に功のあった目時を家老とし藩政を託した。しかし同年12月の領地召し上げと藩主の上京謹慎の命令は、盛岡藩士たちの怒りの矛先を、異例の出世を遂げた目時の身に向けさせた。政府と藩士達の間に挟まれ苦悩し続けた目時だったが、藩士達の怒りを解くことはできず、ついに麻布藩邸の一室に幽閉される。取調べのため盛岡に護送される途中の黒沢尻(現北上市)にて、目時は己の赤心を示すべく切腹する。明治2年2月8日夜半のことだった。
日頃より勤皇の志の厚い目時だったが、俳句を良くし月窓という号を持つ文化人でもあった。

掲載日:平成16年12月25日

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