第40回:冨田小一郎(とみたこいちろう)

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広報ID1009567  更新日 平成30年12月10日 印刷 

冨田小一郎(1859年~1945年)

女子教育の父

冨田小一郎(とみたこいちろう)の写真

冨田小一郎は1859年(安政6年)5月22日、岩手郡新庄村(現:盛岡市)にて盛岡藩士冨田哲(さとし)、ミヨの次男として生まれた。冨田は幼い頃、兄大二郎に比べて小さかったために“コデァコ”(小大二郎)と呼ばれていた。
作人館修文所で英語や数学を学び、仙台の英語学校をへて、1877年(明治10年)12月、学費のかからない三菱商船学校に入学した。しかし船員の自堕落な生活に呆れ2年間で中退する。のち郷里で教師を務めたが1885年(明治18年)に上京、私立成立学舎で教師をしながら東京大学法学部政治学科で学んだ。
1891年(明治24年)1月、岩手県尋常中学校(現:盛岡第一高等学校)教諭試補となった冨田は約10年間奉職するが、この間に同校は多くの人材を得た。米内光政、田子一民、金田一京助、郷古潔、野村胡堂、板垣征四郎、そして“よく叱る師ありき~”と歌った石川啄木らである。実学を重んじ女子教育にも力を注いだ冨田は、1899年(明治32年)10月に私立盛岡商業学校(現:盛岡商業高等学校)校長兼教諭、1920年(大正9年)4月に私立盛岡実践女学校(現:盛岡市立高等学校)校長兼教師となり、両校の創設にも尽力している。
1939年(昭和14年)6月3日、冨田の教え子らが東京赤坂の「幸楽」で謝恩会を行った。当時の陸軍大臣板垣征四郎、海軍大臣米内光政らが出席したため、“陸海両相らが日本一の謝恩会”、“啄木を叱った翁、入京”と新聞に掲載されている。

掲載日:平成18年5月25日

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