第25回:南部利恭(なんぶとしゆき)

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広報ID1009552  更新日 平成30年12月10日 印刷 

南部利恭(1855年~1903年)

維新の南部藩主(第41代)

南部利恭(なんぶとしゆき)の写真

南部利恭は1855年(安政2年)10月9日、盛岡において第40代南部家当主南部利剛の長男として生まれた。幼名を鉱之助、彦太郎、字を剛毅とした。
1868年(慶応4年)7月、盛岡藩は奥羽越列藩同盟を支持するため、同盟を脱退した秋田藩へ侵攻した。戦況は当初こそ盛岡藩側に優位であったが、佐賀藩を中心とした新政府軍の加勢のために敗戦を重ね、9月には終戦を決意する。このときには、すでに他の同盟の諸藩は降伏していた。10月3日、降伏の嘆願のために、藩主の長子として利恭(当時は彦太郎、13歳)は十二所の新政府軍本陣、次いで九条総督がいる横手に向かう。そこで土下座して降伏の礼を示した利恭であったが、その毅然とした態度に総督府も感心したと言われている。
同年12月、第41代南部家当主となり、盛岡から白石13万石への転封を命じられるが、翌年には70万両献金を条件に盛岡に復帰した。しかし、藩の財政状況はもはやどうにもならず、1870年(明治3年)、諸藩に先立ち版籍を奉還した。
東京に移住後は英学校「共慣義塾」を創設、同校からは多くの人材が輩出しており、旧盛岡藩士子弟の育成に努めた。

掲載日:平成17年10月10日

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