第15回:大島高任(おおしまたかとう)

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広報ID1009542  更新日 平成30年12月10日 印刷 

大島高任(1826年~1901年)

洋学者・近代製鉄の父

大島高任(おおしまたかとう)の写真

大島高任は1826年(文政9年)5月11日、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医大島周意(かねおき)、千代の長男として生まれた。幼名は文治、のちには周禎(かねさだ)、総左衛門を名乗り、1869年(明治2年)に高任と改名した。
1842年(天保13年)、17歳の時に上京、江戸で箕作阮甫(みつくりげんぽ)、坪井信道らの元で蘭学を学んだ。1846年(弘化3年)、さらに勉学に励むべく長崎に留学し、高島浅五郎から西洋兵学、砲術、採鉱、精錬を学んだ。
当時自藩で反射炉建設を急いでいた水戸藩は、高任を盛岡藩から借り受け、那珂湊(現:茨城県ひたちなか市)に反射炉を建設、1856年(安政3年)には大砲の鋳造(ちゅうぞう)に成功する。しかし、当時の大砲の材料となる銑鉄(せんてつ)は砂鉄などを使ったものであり、その質は高任にとって満足できるものではなかった。そこで盛岡藩領に豊富に産出していた磁鉄鉱に目をつける。高任は磁鉄鉱から銑鉄(せんてつ)を生産するため、甲子(かっし)村大橋(現:釜石市大橋)に洋式高炉を建設する。そしてついに1857年(安政4年)12月1日、磁鉄鉱は溶けて湯口よりほとばしり出た。このことを記念して、12月1日は「鉄の記念日」と定められている。
その後盛岡藩に帰藩した高任は鉱山吟味役、国産方頭取などを務め、1863年(文久3年)、八角高遠(やすみたかとう)らとともに盛岡に本格的な洋学校を建設した。校名は師の坪井信道の私塾「日習堂」から取り、「日新堂」と名付けている。

掲載日:平成17年5月10日

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