第33回:下山逸蒼(しもやまいっそう)

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広報ID1009560  更新日 令和5年4月27日 印刷 

下山逸蒼(1879年~1935年)

俳人・米国自由律俳句の創始者

下山逸蒼(しもやまいっそう)の写真

下山逸蒼(本名:英太郎)は1879年(明治12年)2月9日、南岩手郡仁王村日影門外小路(現:盛岡市中央通一丁目)にて旧盛岡藩士下山友一郎、ヨリの長男として生まれた。1886年(明治19年)、父友一郎が早世したため、逸蒼は下橋高等小学校(現:下橋中学校)を卒業するとともに給仕として県庁で勤務する。下山家は文武ともに秀でた家柄であり、逸蒼も若年の頃から狂歌、川柳、俳句をたしなんだ。
1903年(明治36年)10月に立身出世することを夢見てサンフランシスコ市に上陸した逸蒼は、その日を刹那的に生きる彼の地の同胞を目の当たりにし、その憤懣のはけ口を俳句に求めた。また1911年(明治44年)には、自由律俳句の旗手萩原井泉水(せいせんすい)が俳誌「層雲」を創刊すると同時に参加、次第に俳句にのめりこんでいった。そのため逸蒼は生涯にわたり、「紙燭会」などの句会設立や邦字新聞俳壇上での指導を通して、アメリカ日系人社会における自由律俳句の育成に努めた。
農業従事者、魚商、缶詰工場労働者など職を次々と替えた逸蒼は、カリフォルニア州内を転々とした。また夫ある女性との恋、左足骨髄炎を原因とする障害などの苦境にもかかわらず、3万句とも言われる俳句を作り続けた。33年もの間、一度も帰郷することなくその生涯を終えた逸蒼の墓碑は、サンフランシスコ市郊外の墓地に建てられ、次の句が刻まれている。
夜霧の伴が減って減ってひとり

掲載日:平成18年2月5日

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