第102回:八角高遠(やすみたかとう)

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広報ID1009631  更新日 平成30年12月12日 印刷 

八角高遠(1816年~1886年)

西洋医学者・日新堂創立の人

八角高遠(やすみたかとう)の写真

八角高遠(号:杏斎)は1816年(文化13年)2月21日、岩手郡盛岡加賀野新小路(現:盛岡市若園町)にて盛岡藩の藩医八角宗吉の次男として生まれた。1823年(文政6年)12月、八角が数え年で8歳の時に父が亡くなり家督を継ぐ。
1840年(天保11年)7月、八角は京都の蘭学医新宮涼庭(しんぐうりょうてい)が運営する順正書院に入門するため、同じく藩医をしていた飯富了伍とともに盛岡を離れる。京都には9年間滞在し、ついには塾頭補導を務めた。その様子は八角自身が記した『在京記』に詳しい。帰盛後は藩医となり、1854年(安政元年)には奥御医師に累進、翌年には藩校明義堂の医学助教に任命された。しかし八角の蘭学はまだ藩には受け入れられず、わずか2ヶ月で免職となる。藩主利剛はそんな八角を変わらず奥医師として使い、参勤交代の際にも同行させている。1861年(文久元年)4月、八角は大島高任とともに洋学校日新堂の創立を目的とした結社の盟約を結んだ。洋学者育成の必要性を訴えた彼らの運動により、1863年(文久3年)5月、盛岡城から東南にあたる新山館(現:盛岡市高崩)に日新堂は竣工された。廃藩置県後は島立甫とともに盛岡県学校医学局に勤め、病院建設と予防規則の制定を働きかけている。
八角は又新(ゆうしん)という名も使った。これは八角が行った種痘普及などの医療活動を高く評価した藩主利剛から賜った名前である。

掲載日:平成20年12月25日

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