第116回:尾高惇忠(おだかあつただ/じゅんちゅう)

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広報ID1009645  更新日 令和4年3月14日 印刷 

尾高惇忠(1830年~1901年)

地場産業発展の功労者

尾高惇忠(おだかあつただ)の写真

尾高惇忠は文政13年(1830年)7月27日、武蔵国榛沢郡下手計村(現:埼玉県深谷市)にて尾高勝五郎、やへの長男として生まれた。尾高は渋沢栄一の義兄であり、また渋沢に論語と商いを教えた恩師でもあった。
1870年(明治3年)、尾高はわが国初の官営工場である富岡製糸場の初代工場長を務め、見事な成績を上げている。
1877年(明治10年)、第一国立銀行頭取渋沢栄一は東北開発のため、盛岡に同行の出張所を設置、翌年2月には昇格させて盛岡支店とした。尾高は渋沢に依頼され支配人として着任する。第一国立銀行盛岡支店は、公金を取り扱うために設けられたが、東北地方の殖産興業を図るという目的も併せ持つ。来盛した尾高は盛岡の産業経済の発展に尽力した。
1878年(明治11年)、旧盛岡藩士が中心となって行った第九十国立銀行の開業に積極的に協力し、経営指導を行う。また1881年(明治14年)には、商工会議所の前身にあたる盛岡商法会議所を設立、所長として盛岡の若手実業家たちに新しい経済理論や実務を教えた。この中から後の経済界のリーダーとなる人物が多数育っている。また1885年(明治18年)、北上川舟運の近代化を図り北上廻漕会社(ほくじょうかいそうがいしゃ)を設立、最新の快速蒸気船を走らせ、盛岡‐石巻間の人と物の流れを円滑にさせた。さらに、藍問屋の出身である尾高はその専門技術を生かし、中津川付近で近代的な藍染の指導を行うなど、地場産業の指導育成にも功績を残した。明治20年(1887年)、尾高は10年間過ごした盛岡を後にしている。
尾高の菩提寺は郷里の埼玉県深谷市の妙光寺であり、墓はその近くにある。墓碑には渋沢栄一の手により、“学あり行いあり君子の器。われまた誰をか頼らん。何ぞわれを捨てて逝けるや”と記されている。

掲載日:平成21年7月25日

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