第103回:大矢精助(おおやせいすけ)

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広報ID1009632  更新日 平成30年12月12日 印刷 

大矢精助(1843年~1888年)

運輸事業の功績者

大矢精助(おおやせいすけ)の写真

大矢精助(別名:勝郎)は1843年(天保14年)11月3日、岩手郡加賀野村(現:盛岡市加賀野)にて盛岡藩士大矢五蔵、ヤエの長男として生まれた。数え年26歳の時、大矢は秋田戦争に従軍し北の藩境に配置されている。
明治時代になると、大矢は盛岡常備隊権曹長、対馬海人神社権宮司などを務め、1874年(明治7年)に工部省鉄道寮勤務となった。この前々年に日本初の営業用鉄道が新橋~横浜間で開業しており、鉄道敷設の必要性を実感する。1881年(明治14年)、岩倉具視らによる私立鉄道会社日本鉄道設立の際には、東北地方の代表として理事委員に選ばれており、のちの太平洋側への路線誘致運動の際には県知事石井省一郎らとともに尽力した。
1885年(明治18年)、大矢は盛岡の財界人らと北上回漕会社を資本金1万5千円で設立した。同社は汽船による北上川舟運を目的としており、初代社長には大矢が就任している。同社のメンバーの多くはのちに盛岡実業講話会を作り、明治から大正の盛岡財界を支える人材となった。1888年(明治21年)9月10日、惜しまれつつも大矢は亡くなる。のちには彼を偲ぶ人々により、尾高惇忠撰、太田孝書による大矢精助君碑が盛岡市大泉寺に建立された。
男子に恵まれなかった大矢家では、大矢の妻の弟中村馬太郎を養子に迎えた。大矢姓となった馬太郎は、明治と昭和に2度、盛岡市長を務めている。

掲載日:平成21年1月10日

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