第120回:松橋宗明(まつはしそうめい)

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広報ID1009649  更新日 平成30年12月17日 印刷 

松橋宗明(1871年~1922年)

南部鉄器改良の指導者

松橋宗明(まつはしそうめい)の写真

松橋宗明(号:台山)は1871年(明治4年)7月15日、盛岡にて旧盛岡藩士松橋宗之、スマの長男として生まれた。1889年(明治22年)2月、東京美術学校(現:東京藝術大学)が開校すると第1回生として入学、鋳金科に進み、岡崎雪声(おかざきせっせい)と大島如雲(おおしまじょうん)に師事した。本県で東京美術学校に入学した最初の人である。
松橋は将来を嘱望(しょくぼう)される新進作家として中央で活躍していたが、1914年(大正3年)6月、南部鉄器振興のため旧盛岡藩主南部利淳が愛宕山麓の南部家別邸内に「南部鋳金研究所」を開設すると、その所長として招かれ、南部鉄器の改良と指導にあたった。
盛岡藩の保護のもとに発達した南部鉄瓶だが、明治以降も職人たちは旧来の方法で製作したため、徐々に低廉でデザインの斬新なほかの産地におされるようになっていた。松橋はデザインや技術の改良指導にあたるとともに、職人の意欲の発揚を図るため、中央の展覧会への出品を奨励した。そのため1918年(大正7年)と翌年の農展(農商務省主催の工芸展)では、盛岡から多くの入賞・入選者を出しこととなり、ほかの産地を圧倒した。また1920年(大正9年)には、審査員に鋳金家の大島如雲(おおしまじょうん)、香取秀真(かとりほずま)といった中央の一流作家を招き、盛岡で全国金工品共進会が開催された。盛岡でこのような全国規模の共進会が開かれたのは、松橋の尽力によるものとい言われている。盛岡からは2人が技術賞金賞を獲得したのをはじめ、20人余が入賞を果たしている。こうした成果は、南部鉄器職人たちにとって大きな自信となり、その後の名声を取り戻すことともなった。
南部鉄器の復興に大きく貢献した宗明は、1922年(大正11年)、52歳の生涯を閉じた。松橋は謹直な性格だったと言われており、精細な作品からはその人柄が偲ばれる。

掲載日:平成21年9月25日

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