第113回:佐藤昌介(さとうしょうすけ)

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広報ID1009642  更新日 平成30年12月17日 印刷 

佐藤昌介(1856年~1939年)

北海道大学の父

佐藤昌介(さとうしょうすけ)の写真

佐藤昌介は1856年(安政3年)11月14日、稗貫郡里川口村(ひえぬきぐんさとかわぐちむら)(現:岩手県花巻市)にて盛岡藩士佐藤昌蔵(しょうぞう)、キンの長男として生まれた。作人舘で学んだ後に上京、大学南校(現:東京大学)などをへて、1876年(明治9年)に札幌農学校(現:北海道大学)に第一期生として入学した。その落ち着きある風格から、学生時代に“おとっつぁん”や“ファザー”などのあだ名をつけられている。
“Begentleman”を教育の理想とし、自由で自主的な人間を育てることに努めたクラーク博士の影響を強く受け、後に母校札幌農学校の発展と人材の育成に生涯を捧げた。
昌介は1882年(明治15年)に渡米し、4年間に渡り農政学や農業経済学について学んだ。帰国後は札幌農学校の教授や校長に就任し、たびたびおとずれた廃校の危機の際には奔走しその窮地を救った。また同校を東北帝国大学農科大学に昇格させ、農学部のほか医学部、工学部、理学部を有する理系総合大学(北海道帝国大学)へと発展させたのも昌介の尽力によるものだった。75歳で退任するまでに40年近くも校長、学長、総長として同校の最高指導者でありつづけ、その履歴はまさに北海道大学の“父”であった。そのため1939年(昭和14年)に行われた昌介の葬儀も大学葬として営まれている。
昌介は同郷の7つ下の後輩の新渡戸稲造を支援したことでも知られている。新渡戸がアメリカのアレゲニー大学で学んでいた時に、自分が在学していたジョンズ・ホプキンス大学への転学を薦め、さらにドイツ留学の際にも協力し、新渡戸の葬儀委員長を務めたのも昌介であった。幼年から晩年に至るまで親交を続けた昌介は、新渡戸にとって兄のような存在であったと言える。

掲載日:平成21年6月10日

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