第126回:金田一勝定(きんだいちかつさだ)

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広報ID1009655  更新日 平成30年12月17日 印刷 

金田一勝定(1848年~1920年)

銀行・電気・鉄道事業育ての親

金田一勝定(きんだいちかつさだ)の写真

金田一勝定は1848年(弘化5年)2月12日、岩手郡仁王村四ツ家町(現:盛岡市本町通二丁目)にて豪商「大豆屋」金田一伊門(いもん)、リセの長男として生まれた。言語学者金田一京助は甥にあたる。
勝定は1896年(明治29年)創立の盛岡銀行をはじめ、1904年(明治37年)の盛岡初の電気会社である盛岡電気株式会社、1911年(明治44年)の岩手軽便鉄道など、多くの企業の創立に尽力した盛岡屈指の実業家である。また盛岡銀行頭取、岩手軽便鉄道社長、盛岡電気株式会社社長等を歴任した。
勝定が関わった事業の内、岩手県の内陸部と沿岸部を結ぶ岩手軽便鉄道敷設が難事業であったことで知られている。県知事笠井信一(かさいしんいち)の再三にわたる説得を受けた勝定は、1912年(大正元年)8月に着工したが、翌年の大洪水で木橋が流失、さらに第一次世界大戦勃発により鉄材が暴騰、レール購入が困難になるなど苦難の連続であった。しかし1915年(大正4年)11月、ついに花巻から仙人峠の全線が開通した。仙人峠からは索道により大橋まで荷物の運搬が行われ、大橋から釜石までは釜石鉱山鉄道によって結ばれた。このことにより、花巻から釜石方面だけではなく、岩手県全体に大きな経済効果がもたらされた。
養子の金田一国士(くにお)が事業を引継ぎ、1920年(大正9年)12月31日、勝定は享年73歳でこの世を去った。“予(よ)がもっとも力を致したのは岩手軽便鉄道で、次は電気会社、第三は盛岡銀行である。若し法名をおくるなれば鉄道電気銀行居士とでもいくべきであろう”と勝定は生前に述べており、その法名は「鐵心院銀覚電栄居士」であった。

掲載日:平成21年12月25日

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