第118回:久慈次郎(くじじろう)

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広報ID1009647  更新日 平成30年12月17日 印刷 

久慈次郎(1898年~1939年)

社会人野球に生きた人

久慈次郎(くじじろう)の写真

久慈次郎は1898年(明治31年)10月1日、久慈清、ツヤの次男として青森市に生まれた。父の仕事のため幼少期を盛岡で過ごす。幼いころは野球より絵を描くことを好み、画家を目指していたこともあった。しかし180cm以上の身長に恵まれた久慈は、捕手として試合に数多く駆り出され野球の道へ進むこととなる。
久慈は盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)野球部に入部し本格的に野球を始める。野球の名門早稲田大学をへて、卒業後に函館太洋倶楽部(または函館オーシャン倶楽部)に入部、1927年(昭和2年)から始まる全国都市対抗野球大会で活躍した。1930年(昭和5年)からは監督も兼任し、函館を率いる名捕手兼監督として人気があった。1931年(昭和6年)と1934年(昭和9年)の日米野球大会では全日本軍の主将を務め、好リードと強肩でもってベーブ・ルースやルー・ゲーリックらと対戦している。また、昭和9年には全日本軍を母体とした大日本東京野球倶楽部(現:東京読売巨人軍)が誕生する。これに久慈は破格の待遇で主将として参加を要請されたが、入団を辞退、同球団の初代主将は幻に終わっている。
1939年(昭和14年)、試合中にけん制球を頭部に受け、42歳の若さでこの世を去った。現在、全国都市対抗野球大会の特別賞の一つである「久慈賞」は、久慈の活躍と敢闘精神を記念し、1947年(昭和22年)の第18回大会から設けられたものである。
1936年(昭和11年)、函館市会議員補欠選挙の際に、周囲が勝手に久慈を立候補させたが、選挙活動を一切せずに堂々第3位で当選している。久慈の人柄が市民からも慕われていたことがわかるエピソードである。

掲載日:平成21年8月25日

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