第127回:鹿島精一(かじませいいち)

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広報ID1009656  更新日 平成30年12月17日 印刷 

鹿島精一(1875年~1947年)

近代土木事業の先駆者

鹿島精一(かじませいいち)の写真

鹿島精一(旧姓:葛西)は1875年(明治8年)7月1日、第一大区一小区上田村(現:盛岡市上田)にて旧盛岡藩士葛西晴寧、すえの長男として生まれた。翌年父晴寧が死去したため、家族は仁王村字下台(現:盛岡市梨木町)にある母の実家出渕家に引き取られた。
1888年(明治21年)、盛岡‐一関間の鉄道敷設が開始され、工事を請け負った鹿島組が出渕家の隣に盛岡出張所を設けた。この縁で鹿島組組長鹿島岩蔵の知遇を得た精一は県立岩手中学校(現:盛岡第一高等学校)卒業後に上京、岩蔵の援助を得て東京帝国大学土木工学科を卒業した。のち岩蔵の長女糸子と結婚、婿養子となって鹿島を名乗り、1912年(明治45年)の岩蔵逝去後は鹿島組3代目組長に就任した。精一は1930年(昭和5年)に同社を株式会社に改め、株式会社鹿島組初代社長となる。この間にそれまでの経営から堅実で近代的な方針に切り替え、拡張された事業を鉄道建設に一本化した。
“鉄道の鹿島”、この名は東海道線における熱海‐三島間の「丹那(たんな)トンネル」の難工事を行ったことによって与えられた。全長7.8キロメートルの当時日本一の長さに加え、鹿島組が請け負った西口(三島口)は地盤が脆弱な難工事区域で、これまでの工法は役に立たなかった。精一は陣頭に立ちエアーロック工法、セメント注入法などを新たに発案、17年の歳月をかけて1933年(昭和8年)にトンネルを貫通させた。この工事で開発された多くの工法や経験、技術が、“世界の鹿島”の基礎を作り上げたと言える。また、東京土木建築業組合長、日本土木建築請負業者連合会長、土木学会会長などを歴任、土木建築業界全体の発展にも貢献した。
精一は自らが岩蔵のおかげで道が開かれたように、向学心を持ちながらも進学できない学生に対して援助を惜しまなかった。義理の息子鹿島守之助が創設した「鹿島育英会」は現在も学生ために進学への道を開いており、その精神は今も引継がれている。

掲載日:平成22年1月10日

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