第123回:南部利剛(なんぶとしひさ)

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広報ID1009652  更新日 令和2年11月5日 印刷 

南部利剛(1826年~1896年)

維新の南部家当主(第40代)

南部利剛(なんぶとしひさ)の写真

南部利剛は1826年(文政9年)12月28日、第38代南部家当主南部利済(としただ)、烈子の三男として盛岡に生まれた。利済(としただ)との不和により1年余で隠退を迫られた兄の利義(としとも)の跡を継ぎ、1849年(嘉永2年)に数え年24歳で第40代南部家当主となる。
藩主となった利剛は混乱する家中にありながら、楢山佐渡や東次郎ら若く才能のある人材を用い、切迫した藩財政の建て直しを図った。まず、利済(としただ)のころに築いた華美な新御殿や津志田の遊郭を廃止するなど、奢侈を改めた。さらに、倹約の範を示すために自身の1年間の費用を210両とし、平素は木綿を用い、油を節約するために夜食後は燭台を行灯に換えたと言われている。また北方警備の強化にも努め、守備隊を派遣するなど国事に尽くし、中将に任ぜられた。
利剛は藩の教育振興に力を注いだことでも知られている。1865年(慶応元年)、藩校明義堂を拡張して作人舘と改称、文学・武芸・医学3科の教育体制を整備した。洋学校日新堂を開設する際には、建材を提供し、さらに助成金を交付して援助した。原敬など明治以降に活躍した優秀な人材が、これらの学校から多数輩出されている。
しかし、1868年(慶応4年)に盛岡藩が戊辰戦争に敗れ、利剛は謹慎を命ぜられて東京へ護送される。そして同年12月に藩主の座を退き、嫡子利恭(としゆき)に家督を譲った。時勢に翻弄された利剛は、1896年(明治29年)11月2日、東京にてこの世を去った。
その人となりは温厚で情義に厚く、兄の利義(としとも)に代わって藩主になったことを心痛し、利義(としとも)の子を世子にしようとしたと言われている。また茶道や能楽、和歌などにも精通しており、歌集『桜園集』を残している。

掲載日:平成21年11月10日

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