第114回:小野慶蔵(おのけいぞう)

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広報ID1009643  更新日 平成30年12月17日 印刷 

小野慶蔵(1854年~1920年)

盛岡金融界の先覚者・岩手銀行創立者

小野慶蔵(おのけいぞう)の写真

小野慶蔵は1854年(嘉永7年)6月30日、盛岡呉服町にて豪商小野組の支流芳野屋の子として生まれた。
藩校作人舘に学び、1872年(明治5年)、18歳で京都に出て商業の修業をした。1874年(明治7年)に小野組の破産という悲運に見舞われたが、帰郷後に金銀・株売買業で産を成し、盛岡の経済界に頭角を現すようになる。また盛岡に市制が施行された1889年(明治22年)に35歳で市会議員となり、1912年(明治45年)まで23年間務め、政治家としても活躍している。
小野の業績の最たるものは盛岡金融界の発展に貢献したことである。
1890年(明治23年)、第九十銀行の取締役に就任、1907年(明治40年)には筆頭株主となる。しかし、ほかの重役陣と経営方針があわず、全ての持株を時価で役員に譲渡、同年に岩手銀行(現在の岩手銀行ではない、以下「旧岩手銀行」)を設立し頭取となった。日露戦争後の好機を敏感にとらえた設立であり、出資者は小野の親戚と関係者のみでほとんど独力でのことであった。これ以来小野は“盛岡経済界の風雲児”と呼ばれるようになる。1910年(明治43年)には旧岩手銀行幹部行員による行金費消事件が起こるも、小野は行金の費消分すべてを私財で負担、危機を脱し信用を回復させた。その優れた経営手腕により、旧岩手銀行は5年で第九十銀行をしのぎ、盛岡銀行に迫るほどの急成長をとげて県下有数の銀行となった。以降、盛岡の金融界は旧岩手銀行、盛岡銀行、第九十銀行と三行鼎立(ていりつ)の時代となり、し烈な競争を展開した。
1902年(明治35年)、盛岡の財界人たちは衆議院議員に盛岡市長清岡等を推す。しかし小野はこれに対して原敬を候補者に立てた。当時、盛岡人にとってなじみの薄い原だったが、小野は圧倒的な差をつけて当選に導く。このため原の政治力をバックとし、財界でさらに大きな影響力を有することとなる。小野の「先見の明」を示す逸話である。

掲載日:平成21年6月25日

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