第52回:国分謙吉(こくぶんけんきち)

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広報ID1009580  更新日 平成30年12月10日 印刷 

国分謙吉(1878年~1958年)

産業振興・篤農の人

国分謙吉(こくぶんけんきち)の写真

国分謙吉は1878年(明治11年)2月3日、岩手県二戸郡福岡町下川又1番地(現:二戸市)にて旧盛岡藩士国分喜惣治、ミセの3男として生まれた。福岡尋常小学校に4年間通ったのち、父喜惣治の方針で家の農業の手伝いや八戸にあった泉山銀行で丁稚(でっち)などをした。
1893年(明治26年)、九戸城跡地に私立国分農事試験場を設立、小作人へ経営指導を行ったのが農業指導者としてのはじまりだった。以後二戸郡における青年会や農会などの長を歴任し、1917年(大正6年)には県の支援を受けて、岩手蚕種(さんしゅ)株式会社(のちの岩手農蚕株式会社)社長となり県の養蚕業に携わった。1925年(大正14年)には滝沢村(現:滝沢市)に国分農場を設立し、農業を志す青年たちに独自の農法を指導した。この農場では豆腐やパンなども自製している。
1947年(昭和22年)4月5日、初の知事選挙に国分は当選し岩手県知事となった。“農は国の基本”の信条はここでも変わらず、米作の増強による自給体制の確立、乳牛導入などの畜産の推奨、北上川水系の治水開発、大迫町でのブドウ栽培の奨励など農を基本とした政策を実施し、農業立県岩手の礎を作った。1955年(昭和30年)5月に2期8年間務めた岩手県知事を勇退し、1958年(昭和33年)11月26日、多くの県民に惜しまれつつ亡くなった。
詩人高村光太郎は戦後岩手県に疎開していた。その際に詠んだ詩「岩手の人」のモデルは国分謙吉だと言われている。

掲載日:平成18年11月25日

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