第62回:三田義正(みたよしまさ)
広報ID1009590 更新日 平成30年12月10日 印刷
三田義正(1861年~1935年)
盛岡の近代街づくりの先駆者
三田義正(幼名:寅次郎)は1861年(文久元年)4月21日、岩手郡仁王村赤川(現:盛岡市本町通三丁目)にて盛岡藩士三田義魏(よしたか)、キヨの長男として生まれた。仙台の宮城英語学校を卒業し、東京の学農社で西洋の農学を学んだ。
1881年(明治14年)、三田は岩手県庁に勤めるも2年で退職、製糖業、牧畜、洋式農耕、林業と様々な分野に手を出すが失敗した。また1886年(明治19年)に加賀野村議会議員に当選、岩手県議会議員、盛岡市議会議員を歴任するも、友人中原貞七の選挙支援に失敗し、家産の大部分を失う羽目となった。しかし、母キヨの支援により火薬販売等の権利を獲得、1894年(明治27年)に三田火薬販売所(現:株式会社三田商店)を設立した。日清戦争後の鉱山熱により火薬の需要が拡大していた時期であり、商売は軌道に乗った。以後、1918年(大正7年)に岩手林業株式会社を設立するなど、次第に業務を拡大していく。
1927年(昭和2年)8月、三田を取締役社長として南部土地株式会社が設立された。この会社はそれまで南部氏が所有していた菜園を埋め立て、住宅街と商店街を新たに創り出すことを目的としており、現在の盛岡市大通・菜園地区の礎となった。
1878年(明治11年)5月、18歳の時、「日進新聞」に「諸県中学ヲ立テズンバアル可ラザル論」という題で寄稿しており、この中で人材育成の必要性を訴えた。48年後の1926年(大正15年)、三田は岩手中学校(現:岩手高等学校)を創立し、若き日の言葉を実践している。
掲載日:平成19年4月25日
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