第64回:鵜飼節郎(うかいせつろう)

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広報ID1009592  更新日 平成30年12月10日 印刷 

鵜飼節郎(1856年~1931年)

自由民権運動家・岩手県会書記長

鵜飼節郎(うかいせつろう)の写真

鵜飼節郎は1856年(安政3年)5月、盛岡大沢川原にて盛岡藩士鵜飼徳治の子として生まれた。盛岡の自由民権運動の中心人物であった鈴木舎定とは同じ年であり、10代のころにはともに家出を企てている(鵜飼は失敗)。
1877年(明治10年)2月15日、鹿児島で不平士族による西南戦争が勃発すると、明治政府は東北の旧藩士族から臨時巡査を募集し、それを征伐にあてようとした。鵜飼は新撰旅団第8大隊第3中隊小隊長として上京した。ちなみに同大隊のほとんどが旧盛岡藩士で構成されており、総員1200名、その中には旧藩家老北済揖、安宅正路らも名を連ねていた。しかし西郷軍の撤退とともに戦争も終息に向かい、鵜飼らは従軍せずに解隊した。その後帰盛した鵜飼は鈴木舎定、上田農夫らとともに自由民権運動結社「求我社」の中心として活躍した。1902年(明治35年)の第7回衆議院議員選挙には原敬とともに立候補、当選し翌年の第8回選挙も当選している。晩年は元老として原敬亡き後の県政友会をまとめ、田子一民らの後ろ盾となった。
鵜飼の晩年の生活は清貧だった。その床の間には自筆の「清貧如洗」が掲げられており、盛岡市長を務めた北田親氏も“常に何事に対しても物質に拘泥せぬ気象(ママ)であった”と記者に述べている。

掲載日:平成19年5月25日

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